いかれた慕情を抱えて、眠れないどこかの誰かへ
4時40分、明け方。
寝付けなくて、本を読んでいたらこんな時間になってしまった。空は白んできているのだろうけど、空が白んできているという事実を受け入れたくはないし、真正面にマンションが立っているこの部屋から、空が白んできているのを確認できない可能性があることはもっと嫌だと思うから、カーテンは開けないでおく。
日光が入らないこの部屋に住まわされてからというもの、窓から空が見えないことそれ自体に気が付くことも、少しずつ心をすり減らしていっている気がする。
そんなに嫌なら引っ越せよと言われてしまえばぐうの音も出ないのだが、ここは社宅で、会社に指定されていて、新築なのに、安い価格で住めている。一度与えられてしまうと、手放すのがむずかしくて、うっすらとずっと苦しいままでもなんとなく耐えていってしまうのが私の悪い癖だと思う。そうやって手放せないから選べなくて、なんだかここまできてしまったのだ。
先ほど、僕のマリさんの「いかれた慕情」を読み終わった。
本を読み終わると、手帳に読み終わりの日付をつけているので、暗い中手帳を開いてペンを握る。その時マウスに手が当たってパッとパソコンの画面がついたので、そのまま今文章を書いている。
明日普通に仕事があるとは思えない人間の生活。世の中で流行っていて、段々と選ぶ人が増えているこのリモートワークという働き方によって、逆に健康的な生活を蝕まれつつある今日この頃である。
健康的な生活に必要なことは、歩くこと、陽の光を浴びること、朝起きること、人と話すこと。便利で楽そうな生活と引き換えに失った、当たり前だった毎日の諸々が全て本当に健康に必要だったのだと今になって痛いほどわかる。
中でも、人と話す機会がどんどんと減っていることは意外と辛い。じわじわと辛い上に、なぜ辛いのか原因がはっきりとしないから、ここ最近まで自分が何にそんなに辛いと思っているのかよくわからずにいた。
友達が全くいないとか、全く話す人がいないとか言うわけではない。今までこの人と話す自分、こんな環境にいる自分、〇〇さんから聞いた興味深い話、ある人が出会わせてくれる新しい人々、というように様々な居場所があって自分を分散させられていたのが、この会社に勤めてからというもの、ずうっと狭い空間で自分と向き合わさせられているような感覚に陥って、息が詰まることが増えてきた。
一人時間も好きだし、趣味も多いし、自分は狭いコミュニティで生きられる人間だと思っていた。こんな環境も願ったり叶ったりだと思っていた。
そんなに人間が好きではないと、思っていた。
僕のマリさんが「いかれた慕情」のあとがきでこう書いていた。
結局のところ、私も人が好きなんだろうな、と思う。
誰かと一緒に食べるご飯が美味しいし、たわいのない話をしながら川辺を歩きたいし、くだらないことで笑って、どんな風に考えるのか知りたい。
それはパートナーと言える人だけ、とか、昔からの友人だけ、というわけではなくて、私とは違う考えで私とは違う人生を送るすべての人からもらえる力があると思うし、
こうやって文章を書いたり、写真を撮ったりしながら、欲深くも誰かの心と共鳴したいと思っている。
だからこそ、今の生活はくるしい。
仕事とか生活とか全部ひっくるめて、居場所が欲しい。
くるしいけれど自分のために居場所を作る努力をもっとしてみようと思っている。くるしいから抜け出すにはきっとそれだろうと今は思っているから。
くるしいがあればこそ、変わるきっかけにもなることを知っている。
最近エッセイをよく読むようになったのは、同じような思いを抱えていたり、想像もつかないような苦しみを抱えていたり、その中でも幸せを見出して生きていたりするどこかの誰かによって、確かに救われていて、救われたいと思うからなのだった。
1人だとしても、本があればひとりぼっちではないと思える。本の中に生きる人が私と対話をしてくれる。
私もこうやって文章を残すことで、今も居場所を探しているどこかの誰かにひっそりとこの心が届くことも、密かに願っている。
人を救うのはいつだって人だと思うのだ。