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<祖先神>が孕む特異性と危うさ

神道は色々な特徴を持っています。ただ、他の宗教との比較で考えると、どうしても特殊に思えてならないのが、祖先神というものの存在です。言い方を変えれば、神を祖先とする人間の一族が存在する、という考え方です。

神(特に人格神)と人間との関係です。信奉する神がいるのは、まあよくある話ですが、人をその子孫に位置づけるのは、寡聞にしてあまりその例を聞きません。

例えば、近そうなのはトーテム祖先辺りでしょうが、こちらで考えられているほとんど崇拝対象は、アニミズムに基づく自然の構成要素に限られています。決して人格神ではありません。

むしろ各種の世界宗教をはじめとする多くの宗教は、神と人間の間に、越え難い壁を置いています。もちろん、越えたケースが皆無ではありません。仏を神に相当する超越存在であると考えれば、仏陀がまさしくそれですし、イエス・キリストなどは、ある意味、神と人間の間を往復したような存在であったことでしょう。

ただ、彼らと現在のわたしたち人間との間には、やはり巨大な壁、あるいは絶対的な隔たりが置かれています。今回のテーマに引き付けて、もうちょっと卑近なところで話をするなら、神の領域に達した彼らが、この世に子孫を残すことはなかったのです。

では何でまた、神道はこんな考え方を受け入れることになったのでしょうか?

考えるに、まずは氏神という、氏族の信奉する神が存在したのでしょう。ですがいつしか、何らかの事情によって、それらが祖先の座に滑り込んだ―そんなところでしょうか? ただ、その理由が何であろうとも、神道が世界的に見ても珍しく、また危ういものになった原因は、間違いなくここにあるのです。

それにしても氏神と祖先神の間には、途方もなく深い溝が口を開けていたはずです。両者の間の深い断絶を飛び越えさせたのは、―現時点での私の見立てですが―明らかに政治的な作為であったのでしょう。そしてこの虚構に、未だに囚われ続けているのです。

現時点では、祖先神というものが、虚構に基づく幻想に過ぎないことを、ほとんどの人が承知しているはず(?)です。であれば、当面は大丈夫なのでしょう。ですが、近い将来に、この危うさがまた新たな害毒をもたらすことがないかと、心配せずにはいられないのもまた、偽らざるところとしてあるのです。