墓地で食う飯は美味いか。
自慢することでもないかもしれないが、僕が大学一年の前期の間、主に昼食をとっていたのは大学裏の寺に付属する墓地だった。これはおそらく、本当に自慢することではないと思う。
中には陰気なイメージを持った方もいるかもしれないが、当時の僕を回想すると決してそうではなかったと思う(前向きに墓地にいた)。
しかし客観的に見たとき、行為としてはかなり陰気な類のものかもしれない。
墓で昼食を食べていた頃、2019年上半期の僕はまだ大学に入りたてだったわけだけど、当然まだ慣れてはいなかった。
その上、僕は大学の最寄りから二駅のところに家があるため2限分ほど時間が空けば余裕で帰宅して昼食を食べることができたのだった。
だから実際僕は一週間のうち3日くらいはそうしていたし、それはかなり楽だった。問題なのはそうでない日だ。当然、そうでない日はある。
「学食で食べれば良いだろう」と言われるかもしれないけれど、学食で食べるのを是とするならそもそも家に帰らない。家に帰っていたのは「昼食代を浮かせて他に使いたいから」というのもあったけど、学食の雰囲気が苦手だったのが大きな理由を占めていたからだ。
なぜ学食が苦手かと言うと、音楽が無いからだ。
皆さんは一般的な飲食店でなぜ店内BGMなるものがかかっているかご存知だろうが。
あのBGMは、店内で他の客の会話や雑音が耳に入らないよう、音の壁にする為にかかっているのだ。あれが無いと、1人で来ている客の耳には
他の客の会話や雑音→耳
という風にダイレクトに入ってきて邪魔になるが、BGMがあることで
他の客の会話や雑音→|店内BGM→耳
となって、周りに気を取られなくて済むのだ。連れがいる場合、周りの音を気にすることなくその相手との会話に集中できる。
で、話を戻すと学食にはBGMが無い。ダイレクトに他人の雑音や会話が入ってくるから気が散るのだ。僕は元々気が散りやすいので、手足の爪も5本中3本だけ短かったりする。(途中で他のことを始めるから)
……まぁ、イヤホンとか付けろよ、と思われるかもしれないけれど。
そんな感じでなんだかんだ毎回家に帰るか適当に渋谷の方へ出て行って昼を食べていたのだけど、どちらにしろ大学に至る長くて面倒な坂を毎度登らなくてはいけない。昼を食べたあとにまた疲れるというのもなんだか勿体ない気もするし。
ある朝、大学の坂道を登りながら、とかく学食は食いにくい、今日もやっぱり家に一度戻るかなどとと考えていたのだけど、その時偶然、坂を登り切った先に寺があるのが目に入った。なんとなく覗いてみるとなんだか雰囲気が良い。空気も良い。それが僕の墓地との出会いである。
試しにその日、おにぎりとジュースを持って墓地へ赴いた。墓地には一箇所随分開けた場所があり、僕はそこにあった瓦礫のようなもの(決して墓石の類ではない。僕の良識と一般常識と一般教養を信じ、それが明らかに座って良いものだったことをわかって欲しい)に腰掛け、おにぎりを食べジュースを飲んだ。
僕はそもそも、人がたくさんいるところ自体は好きだ。特に、お互いのことを何も知らないし興味もないがただそこにたくさんいるというのが好きだ。
唯一のネックは話し声や雑音が気になるというところだが、その点飲食店なんかは前述した通りBGMの壁が施された僕にとって最適の環境といえるかもしれない。
あれだけ苦手だと言ったけれど、学食なんかは周りが気になるという1点以外は結構悪くないのだ。
その1点を上手くカバーしたのが墓地だったといえるだろう。なにせ墓地にはお互いのことを知らない人がたくさんいるし、それなのに周囲の雑音に悩まされることもない。ただ全員死んでいるだけだ。
僕だけが生きている。最初のうちは「ここにいる皆は飯が食えない。なぜなら死んでいるから。俺は食える。なぜなら生きているからwww」というような優越感が過ぎったこともあったが、今となってはそんなこともない。
毎回……ではないがお賽銭も入れているし、死者に敬意を払って昼を食べている。というか、いた。
というのも、1年の後期辺りから生きた人間と食べることも増えたからだ。
それまで昼食(死んでいる)と埋葬された人々(死んでいる)と僕(生きている)で構成された僕の食事環境は生きている方が少数派だったのだけれど、
後期からは昼食(死んでいる)と一緒に食べている人(生きている)と僕(生きている)という、生きている方が多数派に転倒することも多くなった。()内の「死んでいる/生きている」が正確かはわからないが……。
今は大学閉鎖でどちらも出来ていないけれど。
もし僕に後輩が出来て、その人が学食も気乗りせず、かといって学内で食べる場所も見つからず、毎度の昼を渋谷へ出ていきたくもない……そんな風に悩んでいたら、一言「墓地で食う飯は美味いよ」と、僕は声をかけるつもりだ。