「一刻千金」の時を惜しむ
久々に娘に逢えました。
私が50歳で授かった、亡き妻が遺してくれた忘れ形見です。彼女は母親を亡くした同じ時機に大学を卒業し、東京で自立して早10年が経ちました。
それからは、半年か1年に一度くらいの頻度でしか逢えません。先日、帰阪した娘とランチを楽しんでいる途中で、彼女が発した言葉に、自分が老いの坂を転がり始めていることを気づかされました。
「パパに逢う前に、私はいつもドキドキするんだよ」
「どうして」
「パパがヨボヨボのお爺さんになっていたら、どうしょうかって」
短い会話ですがショックを受けました。80歳を超えた私は老人の自覚がありません。学ぶ課題が多すぎて、老いを意識する時間も、終活の準備をするヒマもないのです。
不確実性の時代を生き抜くために、毎日ハラハラ・ドキドキ、ときめきが止まりません。加齢の暦を2年に1歳と決めましたが、山積みになっているやりたいことにチャレンジするための苦肉の策です。残り時間を稼ぎたいのです。
そこで時間の流れを止める手段として、無我夢中で没頭できる大好きなことに専念することにしています。運勢学教室や占い鑑定、未知の世界を彷徨う読書など、埋没できるテーマに気持ちを集中させているのです。
時の経過を忘れるほどに、暦に空間が生まれて持ち時間を稼げるのでは、と虚しい抵抗に挑んでいるのです。
これからも、愛娘に老醜をさらすことがないように、時間を停止させるほどの好奇心と、新しい時代に即応できる探究心を鍛えて行く決意を新たにしました。
山は暮れて 野は黄昏(たそがれ)の
薄(すすき)かな
与謝蕪村
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