人生会議 〜死は誰のものか〜
私が最も身近に死と出会ったのは、母方の祖父の死である。
私が初めての子どもを産み、3ヶ月ほどした頃だ。
祖父母は皆、長生きしたと思う。
高齢であったから、ある程度心の準備も出来ていた。
母方の祖父母は、田舎に暮らしていた。生まれてから死ぬまで、同じ集落で生きた。
家の裏山に先祖代々のお墓があり、竹藪がある。畑や田んぼで作物を育て、食べる分を賄っていた。祖父は気ままな人で、酒を飲み、タバコを吸い、好きなものを食べて絵を描いて暮らしていた。
田舎だけなのだろうか。
亡くなる本人が主役でなくなる地点がある。ある地点で主役の切り替えが行われるのだ。
意識が無くなると、決定権は遺されるものたちに移る。そこに本人の意思は必要とされなかった。
もうダメそうだ、という暗黙の了解により、主権移譲は行われる。
もうこのひとは「あちら側の人」となる。
祖父は肺がんで亡くなったのだが、病院生活が嫌で、半ば強引に外泊という名目で家に帰り、そのまま亡くなった。
自分の家でまたタバコも吸って、やりたいようにできた最期でよかったな、と私は思った。
祖父はラッキーだったのだろう。
帰ってきてほんの1週間ほどを過ごして逝った。
これが長くなれば介護の問題が出てくるし、そうなると親戚筋や近所の皆さんがわっせわっせと御輿を担ぎに来る。祖父母の意思どころではない。
とにかく沢山の縁ある人々がやってきた。私は娘をおんぶしながらひたすらお茶出しをした。
お葬式を仕切ってくださるのはご近所の隣組の方々。おばあちゃんは、必要な時に呼ばれてサインしたり、主にお客人の対応に回って、何度も同じ話を繰り返していた。
私は何故だか人が死ぬことについて、若い頃から関心を持っていた。「病院で死ぬということ」という本を読んで、人間らしく死を迎えるってどういうことなんだろうと考えたりした。
10数年前、まだ介護保険も在宅医療も一般的ではなかったと思う。始まったばかりという感じだった。病院はとにかく長く生かすことが使命だったし、治療をしない選択肢は珍しい時代だった。
(と認識しているが、専門の方、その分野の方から異論が出るでしょうか…。あくまで私の認識です。)どういう死を迎えるか、それは人生においてとても重大な一場面なのだと理解していた。
そんな私にとって、初めての身内の葬式であった。
母と伯父は、祖父の遺した通帳から葬式代を引き出す手続きに追われ、奥の部屋にこもっていた。
私の従兄弟である祖父の内孫が地元の葬儀会社に勤めており、そこの社長が事務的なことを何かと助けてくれた。おじいちゃんは「葬儀屋なんて勤めて…」なんて、生前良い顔をしなかったようだが(ごめんなさい、個人の見解です)ここにきてやんややんやと、従兄弟の株は爆上がりであった。
とにかく、おじいちゃんは死んでしまったのだ。
あとはこの集落のやり方で、抜かりなく滞りなく、送ること。
そんな一致団結したムードに包まれていた。明るいと言っても良い。
司会者は女性だった。ベテランである。
カノンが流れるなか「あぁ、〇〇さん…!」なんて叙情感たっぷりの呼びかけに、正直ギョッとしたのだが、それまで葬儀の段取りでテキパキと明るく動き回っていた大人たちは、急に涙を拭ったり鼻をすすりあげたりし始めて、さらに私を困惑させた。
その割に、通夜振る舞いになると飲むは食うは、真っ赤な顔で大笑い。
死者を悼むとはどんなことであろう、とその頃の私は、田舎の人々の表と裏の顔のすり替わりに怖ろしさを感じた。まるでみんなで壮大なお芝居を演じているようだった。
その違和感は、よくわからぬまま滞り続けたわけだが、数年が経ち、今度は祖母が危篤となった。
急に具合が悪くなり、病院に入院したと聞いた私と母は、お見舞いに行った。祖母は酸素吸入器をつけており、荒い呼吸で意識は朦朧としていた。
ただお見舞いに行っただけなのに、命は瀬戸際だった。手を握り、話しかけていたが、そのうち車で迎えに来た伯父に呼ばれ、あっさり祖母の家に戻ることになった。母は残るのかと思いきや、一緒に家に行って片付けをする、とのことであった。
おばあちゃんのそばにいて励ましてあげたいと思ったが、その時私には2人の子がいて、病院に詰めていられる状況ではなかった。
祖母の家で、庭の草むしりをした。1人になって、庭を整えるのは難儀だ、でもやらなきゃあね、と言っていた祖母。きっとおばあちゃんも喜んでくれる。そう思い、子どもと一緒に無心で草を抜いた。
その晩、祖母は亡くなった。
母と伯父は駆けつけたが間に合わなかった。
遺体は病院から家に運び込まれ、布団に寝かせられた。
朝になると、例の如くたくさんの人々がやってきて、同じ繰り返しをした。私の父も、夫もやってきた。
1日を終え、夕ご飯を食べていると母が言った。
「私たちも、喪服の準備があるし今夜いったん戻るわ。hikoもでしょう?兄貴に泊まってもらえばね」しかし伯父は「え?俺も帰るよ。自分ちで寝るよ」「じゃあしょうがないね、みんな帰らなきゃいけないもの」
私は唖然とした。おばあちゃんをひとり置いて、皆家に帰ると言っているのだ。
亡くなった人に、そんな仕打ちって。
夫は私と同じ気持ちだったらしく、私たちが家に残ることを申し出た。
「そりゃあ助かるわ」と伯父と母たちは帰っていった。
祖母は死んでしまったのだ。死んだひとは「あちらの人」。彼女に意思は無く、生きている人の都合が優先される。遺体を広い民家の一室に残して一晩おいても問題ない。そういう風土なのだろうか?わけがわからなかった。
伯父も母も、祖母と確執があったわけではない。
でも、死んだひとというのは、彼らにとって、もう死んでしまったひとなのである。
ずっと私の中でくすぶっていた。
「人生会議」という名の、個人を尊重し、死ぬとき何を大切にするかというアプローチと、その対極にあるような田舎の葬儀で起きた出来事。
そして、私自身が病気になり、命を見つめることになった今。
少しだけ、自分なりに考えが生まれている。
それは、命をどう捉えているか、ということに端を発する。
祖母はとても優しい人だったが、畑の虫は手で潰してしまったし、虻は叩いて殺し、庭に捨てた。
祖母は、あくまで自分たちの都合で、ためらいなく殺した。私は何度もびっくりして無言で彼女を見つめたが、彼女は意に介さなかった。
あの場所であの時代に生きた人々は、死と命の捉え方が根本から違うのだ。
死そのものに、意味を見出さない。
命は平等で、いつか必ず死んでいく。
ただそれだけ。
「人生会議」という考え方は、現代の都会に住む人の発想なのだろう。たぶん祖母に、どういう風に死にたい?と聞いたとしても「むずかしいことはわかんねぇなぁ」と照れ笑いして答えてくれないと思う。人生会議が不必要だと言っているわけではない。ただ、自然を相手に長く暮らしてきた人々にとっては、死ぬことは自明であり、私の意思の生ずるところではないと思っているのではなかろうか。かわいそうに思えた祖母だって、誰かが亡くなる度に同じようなことをしてきたのだろう。
それはセンチメンタルをがばりと乗り越え、よそ者には分かりえない、古くから伝承されてきた、命に対する振る舞いかたなのだ。
翻って、私の人生会議である。
死にそうに痛かったのに、今誰も、私の命の期限について語ってくれる人はいない。
お熱を下げましょうね、悪いバイ菌がいないか検査をしましょうね、原因はわからないけれどまずは楽になるようにしますね、と、至極親切にしてくださる。おかげさまで痛みは遠のいている。
けれど、私の命について、死について、直球で語ってくれる人はいない。今私が、どこに立っているのかも。
私は祖父母とは違う。ベッドタウンで生まれ育ち、今も似たような場所に住む。1匹の沢ガニを持ち帰ろうとして、車中で死なせてしまい大泣きした子どもの頃の私と変わらない。やわいのだ。命や死に向き合うには。
こういう人間がいざという場面で慌てふためかないように、人生会議は支えになってくれるのだろう。でも、祖父母たちの生死の捉え方について、私の中にもわずかに受け継がれているものがある。私たちは人間であり、同時に生き物なのだ。
痛いのと苦しいのだけは、何とかしてもらえたらうれしい。そして目安を教えてほしい。
あと細かいことはどうでも良いかなって思いはじめている。生きているひとを大事にしてほしい。
また揺れるかもしれない。それはそれで自分をゆるす。考え続ける。
祖父の葬儀を終え、家に戻った時だ。
見たこともないような大きなオニヤンマが、玄関のあたりをグルグルと旋回していた。
おじいちゃんかもしれないね、と皆で眺めた。
祖母の葬儀の後、やはり玄関に、これまた巨大なオオカマキリが姿を見せた。
おばあちゃんの魂が乗っているのかな、とまた皆で眺めた。
皆、当然の如く、その風景をただ眺めていた。
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