明石に置いてきたものを探しに行った話
「自分の生まれ育った場所って、今どうなってるんやろう。」
退職して自分の今までとこれからについて考える時間が増えて、ふとこんなことを思った。
わたしは大阪で育ったが、生まれは兵庫県の明石である。
そこで暮らしていたのは3歳くらいまでだったと思うが、何故かその頃の記憶が色濃く残っていた。家の近くを通るラーメン屋のチャルメラの音が怖くて、母お手製のキティちゃんのパジャマを着せてもらいながら咽び泣いていたことや、触らないでと忠告していた小さな葉っぱ付きのミカンの葉を、兄に目の前で無慈悲に引きちぎられて激高したことなど、なんでこんなこと覚えてんねんという記憶のアルバムが、わたしの頭の中にはたくさんある。この記憶の余力を他に回せていたなら、わたしはもっと難関な大学を卒業していたかもしれないなと、奥歯を噛み締める思いである。
例によって家族の誰より多くの記憶が残りすぎているあまり、記憶力にまったく定評のない兄からは、「それはもう被害妄想やろ。」と震えながら引かれる始末である。わたしは覚えていなさすぎるあなたに逆に引いているよ。
さて、今のわたしに時間はいくらでもある。わたしと同じく記憶力の良い父に、昔住んでいたアパートの住所を聞き出し、さっそく行ってみることにした。
自宅を出たのは昼の12時過ぎ。もっと早く出る予定だったが、知人から電話がかかって来て、つい長話をしてしまった。わたしは整体に行けば、そこの院長かスタッフにちょっかいを出される「AVやんけ」という事案によく遭遇するのだが、最近またそういうことがあり、その話に花を咲かせすぎてしまった。これについては気が向いたときにでもしたためようと思う。
明石に着くのは14時過ぎ。何も一番暑い時間帯に出なくても…という考えが一瞬よぎったが、強い気持ちと日傘を持って家を出た。
外に出たら、太陽がさっそく殺しにかかってきた。じりじりって聞こえとるんよ。わたしのことは一切焼かせないぞと、自ら作った陰にぎゅうぎゅうと体を押し込みながら駅へと向かう。
ひとつ疑問なのだが、日傘さしてない人の体っていったいどうなってんの?脳天に冷却装置みたいなのついてんの?もしそうならわたしにもつけて。改造して。炎天下の中、コンクリート地獄をノー日傘で飄々と歩く人を見ると、本当にいつも感心する。暑さに強い人と、そうでない人の違いが知りたい。
大阪駅から明石方面に伸びている電車に乗る。座れた。嬉しい。座れなかったら、人目もはばからずそれこそチャルメラが聞こえてきたあの時くらいの感じで泣きわめくところだった。長時間の電車ってそのくらい座りたい。途中、わたしの無知によって名もわからぬ大きな川を電車が超えていくのが見えた。陽に照らされた川ってきれい。流れによってキラキラ揺れる水面ってなんであんなにきれいなんだろうね。自分の瞳の光もゆらゆら動いて、心が洗われるような気持ちになる。ありがとう、地球!!
とか思ってたら次の瞬間には寝ていました。心洗われすぎ。いつも夜寝るのにあんなに苦労してるのに、昼寝だけは射殺されたんかくらいに秒速で寝落ちするのはなぜ?教えて、おじいさん。残念なことに首を地面とほぼ平行にして寝ていたらしく、首の右側がバキボキで悲鳴を上げている。この暑さの中、ずっとこのまま歩けってこと?加えて口から盛大にヨダレがこぼれてマスクの中に池を錬成していた。起きてすぐに、「絶妙に嫌なこと」の2つがわたしの身に起こっていた。生きるのって大変だね。
駅に降り立つと、さわやかな風がわたしの頬を撫でた。マスク池の不快感がわたしの活力を根こそぎ奪っていったけれど、移動のほぼすべてを睡眠に捧げたからか真夏の空の下でも元気だった。
明石の駅から幼少期に暮らしていたマンションへはバスを使って移動する。バスを待つ列に並んでいるとき、少しドキドキしている自分に気がついた。緊張しているんだ。わたしはここに何かを確かめに来たんだと、なんとなく感じていた。
今この瞬間を生きている自分の物事の捉え方、感じ方はいったいどこから来ているんだろう。何かを嬉しいと思う気持ち、何かに寂しいと感じる気持ち、何かを不安に感じる気持ちは、これまでの人生の積み重ねによってどう感じるかは人それぞれ違ってくるものだと思ったから。
わたしは今、変わらなきゃいけないと思って生きているところがある。目標設定をして、それに向かって突き進む人生もとっても豊かで素敵なものだったけれど、でもこのままの生き方じゃしんどいんだってことを、体調不良を通して、わたしの心と体が教えてくれた。自分は何をしているときが心から楽しくて幸せなのか、そういうことに耳を傾けてあげることをずっと後回しにしてきた気がしていた。
何度かエッセイに書いた気がするが、わたしは両親から多大に愛されて育ったと思っている。喜怒哀楽をこんなにも分け合いながら過ごせる家族は、そんなに多くないんじゃないかと、大人になって色んな人たちと時を過ごす中で感じた。ただ一方で、「我慢することは偉いこと」「遠慮することは相手を思い遣ること」そういう暗黙のルールみたいなものを、子どもながらになんとなくキャッチし、それを今も持ち続けて過ごしていることに最近気がついた。だからか、わたしはいつもなんとなく寂しい。小さい頃からずっと。そしてそれを口にすることができなかった。
「引き分けちゃんは我慢強い子やな」とよく父から褒められた。
誰かの期待に応え続ける選択を自分でしてきたことによって、頑張り続けることでしか自分自身を認めてあげられなくなっていた。たぶんしんどかったんじゃないかなぁ。
けれど、だからこそ生まれ育った場所に行って、何かを感じたかった。RADWIMPSも「何も持たずに生まれ落ちた僕」と歌っている。わたしたちは、本当に何も持たずに生まれてきたのだ。周りと比べて浮かんでしまう劣等感も、誰かへ依存したくないと自分に戦いを挑む気持ちも、誰にも嫌われたくないと感じる恐怖心も、得意も不得意も好きも嫌いもすべて、多くの人や社会と関わる中で、自分が周りと比べたり、周りにどう見られているかを無意識に感じ取って鎧のようにまとってきたものだ。何も持っていなかった、何かを持ちはじめた、あのはじまりの場所に行ったら、どんな風に感じるのかを確かめたかった。
ドキドキしながらマンション近くの大通りまで運んでくれるバスに乗り込んだ。外が見たくて、空いていた窓際の席に座ったけれど、ここでバスのクーラー設定バカ寒い問題に直面し凍える羽目になる。設定『急』しかないんか。座った席は直射日光がちょうど肌を突き刺す位置だったので、腕に日焼け止めを塗りたくるバケモノと化した。
バスが発車して、次々に街が移り変わっていく。記憶には残っていなかったけれど、この道や標識、建物の多くは、間違いなく一度は目にしたことのある風景なのだと思うと、とても不思議な気持ちになった。
バスを降りて父の教えてくれた住所をナビに入れ歩みを進めた。
マンションまでは長くて緩やかな下り坂が続いていた。帰りにはこの坂を上らないといけないのだなと思うと一気にげんなりしたが、この道を両親が幼いわたしたち兄弟の手を引いて歩いた時間があったのだと思うと、なんだか感慨深かった。暑い日や寒い日、荷物の多い日なんかは大変だっただろうな。幼いころに住んでいた街を訪れるというのは、色んなところに愛を感じることができる。当時の思いに触れられたような気がして、どこをとっても特別な場所に感じられた。
ナビが指す目的地とわたしの現在地が重なった。顔を上げると、白い縦長のタイルがビシッと整列して造られた壁のマンションがあった。ここだ。明確には覚えていなかったけれど、この感じ、間違いなくそうだと思った。中を覗くと、少し狭くて急な階段が見えた。ここでグッと、一気にあの頃に戻ったような感覚があった。ここの階段を1段1段、一生懸命上った左の突き当りにある201号室。そこで確かに、わたしたちは暮らしていた。階段を上りたいのにドキドキがおさまらない。朧げな懐かしさと、ここまで自分の足で来たんだという喜び、これまでに感じたことのない感情に今出会っていること、これから出会うかもしれない新しい気持ちへの高揚感。頭がクラクラした。この消えかかった白線の真横は、わたしたちを色んな場所に連れて行き、たくさんの思い出を持ち帰らせてくれた父のジムニーが駐まっていた場所だ。前からしか乗り込めないし、けっこう揺れるし、ハンドルをぐるぐるしないと閉まらない窓だったけれど、大好きな車だった。
日傘を畳んで、1段1段踏みしめるように階段を上る。なんだろうなこのわくわく感、緊張感。暑さと坂に疲れていたけれど、このときだけは何も感じなかった。蝉の鳴く声だけが、なぜかいつもより大きく感じられて、風や車の通る音はほとんど聞こえなかった。動いているのに止まっている。
ドアの前に立つ。ボロボロのビニール傘がかかっていたので、誰かがそこで暮らしているようだったが、物音はしなかった。不在なのかもしれない。知らない女が感慨深そうに自分の住む部屋をジッと見ているってめっちゃ怖いだろうなと思ったが、住人が不在であることに気を大きくしたわたしは、上ってきた階段を眺めたりドアの前にしばらく佇んだりした。だってもしかしたらもう二度とここには来ないかもしれないから。
部屋の前に立つと、ふいに寂しくなってきてしまった。何故だかわからないけれど寂しい。家族と過ごした場所に自分ひとりしか立っていない寂しさからなのか、当時隠した寂しい気持ちを教えてくれているからなのかはわからないけれど、嬉しいよりも寂しいが多く募って、重たくなって、気がつけば涙がこぼれそうになっていた。けれど胸があたたかくなるような真っ直ぐした何かもまた、確かに感じていた。考えてもわからないこと、説明できないことってたくさんあるんだろうな。深呼吸をして、ありがとうございますと小さく言ってマンションを後にした。
明石駅に戻った。駅に向かうバスがなかなか来ず、炎天下の中待ちわびてくったくただったので、スタバで休憩することにした。たくさん汗をかいた後のアイスコーヒーってめちゃくちゃ美味しい。ブラックコーヒーなんてちょっと前までぜんぜん好きじゃなかったのに。小さい頃、母が美味しそうに茶色い飲み物を飲んでいる姿を、訝しげに眺めていた自分のことを思い出した。そんな母は、今ではミルクたっぷりのコーヒーを好んで飲んでいる。どっちの美味しさも、今ならわかるよ。
数日後、実家に帰った。こっそり撮らせてもらったマンションの外観や、昔よく遊びに連れて行ってくれたらしい近所の児童公園、駅前の明石公園の写真を両親に見せた。懐かしいと目を細めながら、当時の思い出話をしてくれた。
「この滑り台あるやろ。お兄は怖がって滑り台の縁を持ちながらノロノロ滑ってたけど、引き分けはノーブレーキで下の砂場まで真っ逆さまやったわ。それも何回も。」
すごいな当時の自分。今は石橋を叩きに叩いた挙句、橋と地面の結合部分まで叩いて安全確認するような用心深さもあるわたしだが、何も恐れず、好奇心のままに突撃する自分も確かにいたんだな。これはまさに、何も持たず生まれたままのまっさらな自分そのものだと思った。
これまでの人生で、嬉しかったこと、苦しかったことがたくさんあって、その中で「自分はこういう人間なんだ」と強く認識せざるを得ない瞬間が山ほどあった。わたしはこういうことが苦手。わたしは執着心が強い。わたしはこういうことが好き。こういう自分への視点があったからこそ、目標ができたり、恐れを知ったりして、これまでのわたしの人生を前に押し進めてくれていたのだと思う。たくさん助けてくれていたのだと実感する。けれど、そこに「本当のありたい自分」はあるのだろうか?執着してしまうのだって、本当は甘えたい自分の裏返しなんだ。「こうあるべき」「こうあらねば」という見えない暗黙のルールや、無意識に自分の中に取り込んだ周囲の人の目で、自分のことを縛りすぎてしまってはいないだろうか。その思いの強さに疲れてしまってはいないだろうか。たくさん戦って、たくさん守ってもらった自分への視点にお礼を言って、これからはもっと肩の力を抜いて生きていけたら。わたしの「変わらなきゃ」の根源は、こういう心の叫びからだった。
このひとり旅で感じたことを両親とたくさん話した。
「自分が生まれ落ちて、自我が芽生えるまでの期間過ごした場所に触れられて、なんか感慨深かったわ。幸せな気持ちにもなった。行ってよかった。」
そう言うと、父は数秒の沈黙の後、気まずそうに、
「生まれたのは大阪の塚本やで。塚本のアパートで数年暮らして、その後明石に行ってん。」
ウソやん?ここにきてまさかの展開やん??大どんでん返しやん???
わたしがあの日、あの時、あの場所で感じたアレやコレはなんやったんや???いろんな思いがひしめき合って、情報やら感情やらが脳内で大運動会を繰り広げています。頼む、バトン。繋がってくれ。
けれど、30年近く訪れていなかった小さかった頃の場所を懐かしいと感じられる、こういう経験ってなかなかできるものではない。忘れてしまっていたり、暮らしていた場所が大きく変わってしまっていたならば、出会うことのできなかった感情なのだ。大人になった今だから知ることのできた両親のあたたかさや、今の自分の目線に立ったからこそ見ることのできた風景もあった。いつか両親と一緒に訪れて、当時の色んな話を聞きたい。大阪生まれ大阪育ちのわたしからは以上です。
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