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小3息子。ゲームを与えていない我が家。
はじめまして
メディカルソーシャルワーカーを中心としたひきこもり支援に関する任意団体「ひきこもごも」と申します。自分の こころを守る、自分らしく幸福に生きる、をテーマに学校では教えてもらえなかった、考え方、生き方を、真剣に考えています。
今回は「小3息子。ゲームを与えていない我が家。」という内容でお伝えします。
先日、X上で話題になった投稿です。
「小3息子。ゲームを与えていない我が家。お友達がみんなSwitchを持ってきて遊んでいるらしく、『仲間はずれにされたくなくて、持ってるけど家にある』と嘘を付いていると打ち明けられた。お友達がSwitchで遊んでるときは、ひとりでボール遊びしているらしい。 さて、どうするか…」
500万インプレッションの俗に言う万バズです。
すぐさまガレソに取り上げられ、賛否が飛び交う、炎上定型ルートに乗ります。
みなさまはどう感じますか?
この炎上は、この親御さんに限らず、一般的な家庭においてもある程度は共通する普遍的な問いかけを残しているのではないでしょうか。
こどもに勉強してほしいからゲームを禁ずる
この親の結論自体が珍しいことではありません。
しかし少なくとも、この子は「ゲームもせず」「勉強もせず」「ひとりでボールで遊んでいる」わけです。つまり親の目的は達成できておりません。
勉強したくなるような、するのが当たり前な環境整備をする。
自他の境界線についての説明でよく用いられるたとえ話で
水辺に馬を連れていくことはできても、馬に水を飲ませることはできない。
というものがあります。
長い旅路のなかで、旅人は「いま馬に水を飲んで欲しい」と思っています。
旅人は水辺に馬を連れていきますが、水を飲んでくれません。
旅人は、馬を心配することでしょう。
のどや口腔内の疾患があるか、
おなかに張りや熱感があるか、
まわりの馬と比べておかしさがあるか、
歩様や呼吸などにおかしさがないか、
詳しい人に聞いてみても、特段の問題がないように思えます。
その場合、旅人ができることは
違う水飲み場につれていってみたり、荷物を降ろしてみたり、轡を外してみたり、といったことでしょう。
決して、水場まで手綱を引っ張り引っ張り、息を切らして首根っこを水面に近づけ、あるいは旅人が飲んで見せたりすることではないはずです。
前足で蹴りを喰らうかもしれません。
そんなことをしては、信頼を失い、旅人も馬も疲れてしまい、水を飲ませるという結果も伴わないことでしょう。
馬にも事情があるかもしれません。
この水飲み場の雰囲気が気に入らないのかもしれません。
水が腐っているのかもしれません。
周りの音が気になっているのかもしれません。
何かに警戒しているのかもしれません。
旅人が気づかないうちに、もう水は飲んでいたばかりなのかもしれません。
草から水分が取れているかもしれません。
水辺に馬を連れていくことはできても、馬に水を飲ませることはできない。
旅人の責任は、水辺に馬を連れていくところまでなのではないでしょうか。
水を飲むところまで責任を取る必要はないのかもしれません。
このたとえ話は、親子関係や、自他の境界線を考えるうえで、気付きを与えてくれるのではないでしょうか。
勉強したくなるような環境整備をすることは親の責任でしょう。
一方で勉強しないことを叱責して、罰や報酬で管理することはどちらも疲弊することになりかねないのではないでしょうか。
あなたが勉強してみせて、
静かで明るい部屋や場所を用意し、
家族の全員が勉強する時間を設け、
我が家の「あたりまえ」を作っていくこと
といった周辺環境整備こそが、親の役割なのではないでしょうか。
ひきこもりには理由がある
「親がしてはいけないこと」と銘打ち「ひきこもりには理由がある」を合言葉に、いまひきこもっているひとが、いまどういう状態なのかを考えています。ひとは理由なくひきこもりません。根源的な課題解決なしに性急に回復したような状況だけを求められてしまう当事者はたくさんいらっしゃいます。その環境出力だけを達成しても予後がよくない傾向にあります。いまどういう状態なのかをきちんと考える事で、一時的な状態変化に惑わされず、いま必要なものが考えられます。
当事者にとっても、家族などの身近な伴走者にとっても、理解してほしい、一度考えてほしい内容になっています。ご一読くださいませ。