『最後にして最初の人類』ヨハン・ヨハンソン

ヨハン・ヨハンソンの名前を知ったのは、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督の『メッセージ』を見た際だった。映画も原作もいずれも素晴らしかったのだが、その全体にかかる無機質で幾分重苦しい雰囲気を作り出しているのが彼の音楽だった。そしてその事実に気づくか気づかないかのうちに、彼は亡くなってしまった。

しばらくして先日、アマゾンプライムで適当に見たい作品を探してリストに放り込んでおく作業をしている最中、この作品を見つけた。バックグラウンドは知らないままに、何とも言えないこの無機質なサムネイルとタイトルに目を惹かれた。リストに放り込んだまままたしばらく放置していたのだが、ようやく見ることになった。そして、見る段階になって初めて、ヨハン・ヨハンソンが音楽だけでなく、監督であったことも知った。

ひたすらにゆっくりと映し出されるモニュメントと彼らしい重苦しいドローンが鳴り響く中で、淡々とナレーションだけが続いていく。20億年後の人類からのメッセージという形をとるが、その姿は一切現れず、一般的なSF作品で期待されるような、凝ったCGなどは全くない。だが、不思議なことにそれがストーリーを雄弁にする。この感触は、映画化される前やされていない小説を読むのと似たような感覚だ。

映像化は人々に感動を与えることが多くあるが、同時に想像の余地を狭める。作る側は最大限の想像力を持って表現をするが、見る側は想像する必要を幾分失い想像力を手放すことになる。このことが生み出す悲しみを私はハリーポッターシリーズで初めて味わい、以降もいくつかの小説や漫画の実写化で幾度も味わう羽目になるのだが、それゆえに映像化の諸刃の剣ぶりはいつも気にかかるところだった。

本作品が小説を原作としていることは見たのちに知ったので、小説を読むとまた印象は大きく変わるのかもしれないが、この作品は現時点でむしろ小説に近い立ち位置を感じる。20億年後の人類が窮地に追い込まれ、進化をするもさらなる悲劇によって破滅的未来が待ち受けていること。しかしながらそこには宇宙に対する深い畏敬の念と、人類が人類として生きたことへの矜持があること。そして、そのわずかな希望として20億年前の我々に語りかけてくること。それがどんな立派な映像よりも雄弁に語られていたように思う。

何より、破滅的な未来へと向かいながらも、今の我々よりも幾分も進化した人類が、人類への愛を語るのが非常に良い。昨今、現実の悲惨な状況も相まってか、あるいはいつの時代もそうだったか、多くの映画においては人類は悪く描かれる。そういった中で、いかにも感情に乏しいとも思える本作品でこうした描き方がされるのは、ある種の希望なのかと思う。公式サイトにあるコメントの中でも、写真家の星野藍氏のコメント「あたたかで無機質な救済」が、まさしく!というところだ。


いいなと思ったら応援しよう!