冬枯 | カルチャーが消える
冬が深まると、青々とした植物たちはその姿を消して
賑やかだったはずの野原は
静かで、どこか寂しいけれど
趣ある景色がそこ一面に広がる。
妊娠中も含めて、あかちゃんが産まれるまでの生活には
音楽と映画、本がずっとそばにあった。
自分の様々な面においてのエネルギー源だと言えるくらい頼りにしていたはずなのに、
あかちゃんとの生活が始まった途端に
それらの一切を身体が受け容れなくなった。
嫌いになった、というわけではなく
「今は君たちを取り入れる隙間がない」という感じで。
あんなに好きだったものなので
物理的に時間がないから、とか忙しくて手にできないという理由じゃないのに「触れられない」となる自分の状態にショックを受けた。
その状況は、下の子が生まれてからもずっと続いた。
そんな中でも、ある方のインスタグラムのストーリーズだけは
自分に流れる「唯一のカルチャー」として受け容れることができた。
ストーリーズの断片的に入ってくる情報が心地よかった。
その方は、「言葉にする」ことを生業としている方で
音楽にも、演劇にも精通されていて
いつも忙しく様々な場所へ足を運ばれていた。
その方のレポートのような投稿はもちろんのこと、
日常の些細なことを書かれたような投稿も余さず
私にとっては唯一楽しめるカルチャーだった。
ある時、その方が投稿の中で
三宅唱監督の「夜明けのすべて」という作品と
作中に流れる音楽のことを取り上げられていた。
社会人5年目くらいからずっと「夜明け」という時間(テーマ)を考え続けていたことと、
作品の雰囲気に、産後初めて「手に取りたい」という気が湧いた。
一度湧いたらそれは青い炎!という感じの静かな強いエンジンになって
すぐさま文庫本を買い、何年かぶりに読書をした。
作品の素晴らしさやら、読めたことの嬉しさやらで浮き足だった数日を過ごしてから、
今度は映像作品を見てみよう、まとまった時間がとれたらあそこへ行こう、とこれまでを取り戻すような行動が取れるようになった。
そしてストーリーズの投稿をきっかけに、自分にカルチャーが戻ってきたことへの感謝を伝えなきゃいけないと思い立ち、
インスタグラムでその方に唐突にメッセージを送った。
一応ある時に共通の場を持ち、インスタグラムを介せば連絡を取れる方であるとはいえ、直接の関わりはご挨拶ができたくらいで
投稿を毎日見ていたこちらだけがほぼ一方的に「よく存じ上げております!」という関係性だったため
唐突でとても個人的なメッセージにはきっと驚かれたと思うのに、丁寧にお返事をいただいたのだった。
そして、子育てと向かい合ってきた私を労いながら
「確固たるカルチャーを軸にしていた人たちほど、そことの両立は一旦諦めて、すべてをこどもに注いで頑張ってるなという印象がある」という言葉をかけてくださった。
その言葉で初めて、自分がカルチャーを受け容れなかった答えを知った気がして、ほっとした涙が出た。
わたしはカルチャーを享受するばかりで、生業にしていたわけではなく、むしろ本当にその中で生きる人たちに対して憧れを抱いていただけだったので
それでもそれを自分の「軸」だと捉えてもいいのか、と嬉しかったし、
カルチャーもこどもたちも、本当に心底大事だったのだと知ることができた。
作品の言葉を借りれば、
夜は「夜明け」の前が1番暗い。
けれど夜にしか見えないものがある。
冬に枯れた野原にも
そこにしかない趣がある。
朝は必ずやってくるし、
何度も夜明けを繰り返して冬は春になる。