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聡ちゃんのご飯

私には生まれてすぐに天に召された兄がいるので、物心ついたときから仏壇は暮らしの一部だった。
母は仏壇にある写真を見ながら、この写真は聡お兄ちゃんだと私に教え、私はその写真を認識しながらも、なぜか仏壇のすぐそばに置いてある、交通安全の小さなお地蔵様を聡お兄ちゃんの化身だと思って撫でていた。

お兄ちゃんは私より早く生まれた人だけど、写真のお兄ちゃんは赤ちゃんで、守らなくてはいけない不思議な存在だった。


何でもやりたがる幼い私が出来る数少ないお手伝いのひとつが、仏壇にあげるご飯を盛ることだった。
仏壇にあげるご飯を盛る器には、子供が使う小さなプラスチックのお皿を使っていたので、落としても割れないし、炊きたてご飯の熱さも伝わりにくく、小さな子供のお手伝いにうってつけだった。
さらに私の好きなキャラクターが描いてあったものだから、もうせっせと仏壇のご飯の用意をした。

『聡ちゃんのご飯をあげて』
母の呼びかけに駆けつけて、「このくらい?」『もう少し』と量を加減してお供えする。
そのちょびっと盛られたご飯は、なんとも特別なものに見えた。
食事が終わる頃にそのご飯は下げられ、大抵は歳の離れたきょうだいのお腹に収まった。
同じ釜の飯ながら、あの「とくべつ」なご飯は何か違うに違いない、と幼い私はギラギラしていた。
(実際にはお線香で燻されて、何とも言えない味わいになってしまっていたので、私の勘はある種当たっていた。)

頂き物をしたら何はともあれ仏壇へ、お寿司の日は玉子のお寿司を供え、ピザをとった日はピザがひと切れ、お皿からはみ出した姿で供えられる。
宗教的には肉魚は避けるもののようだが、結構ローカライズされて氷川家のお供えルーティンは回り、いつでも食卓には聡お兄ちゃんが加わっていた。
しかし、季節が巡っても、私が大きくなってキャラクターを卒業しても、聡ちゃんは赤ちゃんのままだ。

仏壇のこと、お墓のこと、法事のこと、死んだらもう会えないということ、すべては聡ちゃんとの繋がりの中で学んだ。

もしも、聡ちゃんが生きていたら。
もしかして、私は生まれていなかったのかもしれない。
そう思ったとき、人間という存在の儚さが浮き上がって見えた。
人の生死は大きい。
でもほんの少しの何かで容易に動かされてしまう。
その曖昧な線の上で成り立つ、自分や家族や、それこそ人類が、なんてあやふやなものなんでしょう、と子供の私は頭の中に小さな宇宙を作ってしまった。


無論このせいだけではないが、幼い頃から死後の世界を意識して暮らした結果、霊的なものや超自然的なもの、輪廻転生などは割と信じるタイプに育ち、心霊ものを過剰に怖がったり、起きるラッキーをご先祖様に感謝したり、振れ幅大きく人生を過ごしている。

独立し、もう私の住まいに仏壇はないし、亡くした人々の写真も飾っていない。
それでも、冷凍ごはんのストックを作るべく、炊飯器から炊きたてのご飯をよそって、最後にほんのひとくち程度のご飯が残ると、「聡ちゃんのご飯」と思わずにいられない。

他の人から見ればただのひとくち分のご飯が、私には幼き頃の、仏壇のご飯に心惹かれたわたしを呼び起こし、あの世にいる(はずの)聡お兄ちゃんへ私を繋ぐ。
これも、曖昧な線の成り立ちのあってこそ、だ。
何の因果か、と思いながら私は「聡お兄ちゃんのご飯、いただきまーす」とお腹に収め、また日常に戻っていく。

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