多面を多面にしてゆく作業
殆どSNS依存症である。人との繋がりを渇望してはSNSを覗いて、他人の動向を探る。みんな、もっと更新してほしい。私に、私が一人であることを気付かせないでほしい。しかしながら、更新されたらされたで、自分が居なくても平然と繰り広げられる世界の存在を突きつけられ、別角度の孤独を味わうこととなる。洒落臭い。
声優の養成所に入る前に、SNSを一度全部消した。ネットは怖いから、どこで揚げ足をとられるか分からない。不安材料は無くしてしまう方が吉。黒歴史も人目につく前に排除した方が吉。自分のブランドを守りたい。だから今持っているアカウントは、綺麗な芸人用のアカウントと、作り替えたものの殆ど使っていない綺麗なプライベートアカウント(リア垢)だ。
この間、久しぶりにInstagramのリア垢を見てみた。小学校、中学校、高校、大学で知り合った人々の現在の生活は、ああ、なんだ、keep in touchしていないって日本語で何だ、急に脳が海外かぶれを引き起こした、なんやっけ、ああそうだ、連絡を取り合っていない人々の生活は、ここで知ることになる。
多くの人々は、我々が出会い、そして同じ時間を過ごしていた「あの時」の彼らから派生された未来を送っている。ファッションにお金をかけていた人はアパレルで働いている、Vintage TroubleやRage Against The Machineを弾いていた人はミュージシャンになったし、ヴィーガンという言葉を教えてくれた人は活動家としての一面がある。
人格形成において、かなり悪い意味で影響の大きかった中学時代。(この時期に尾崎豊とブルーハーツに出会っていなければ、もっとこの世を恨んでいたかもしれない)その頃に仲良くしてくれていた、数少ない友人の一人もあの頃と変わらない素直さを、SNS上でもいかんなく発揮してくれている。変化と言えば、写真を撮るときの表情が、歯を出さない笑顔から歯を出す笑顔になったぐらいだった。
加工によってパステルカラーになった写真には、いつも、その子以外の誰かの存在が示唆されている。その子は正義感が強くて明るくて、人の懐に入るのが上手いから、今でも沢山の友達がいるのだろう。
良かった。
文面だって、私と手紙交換をしてくれていた当時のものと全く変わっていない。文字の色こそ、プレイカラーでカラフルに彩られていたかつてのものとは違っているけれど、読点を付けずに半角スペースを空けている所も、改行がやたら多いのも、アナログからデジタルになっているだけだった。
と言うか、変わらなさすぎている。
テンション感が中学の頃のまんまで、語尾には大体(笑)が付いている。恐らく書いていないだけで、今でも「一期一会」のポエムみたいな感覚を持ち合わせながら友情を育んでいるに違いない。
絶対そう。
これは、成長していないということではない。斜に構える必要が無かったのだ。ど真ん中を楽しむことが出来るだなんて、こんなに幸せなことはない。この子なりの苦労は勿論あっただろうけれど、自分の価値観を変化させる必要性は無かったというだけである。対して自分。どの年代に出会っていた人にも、変わったと言われることが多い。徐々に原型が無くなっている?
「あの頃の自分」というものは成長をしてゆくにつれて、溢れる経験から、ロケット鉛筆のごとく押し出されてしまうのだろうか。もしそうならば、もうこの世からすっかり居なくなってしまったのだろうか。過去は過去で、きっと良い所もあったはずなのに。
学生時代、凄くお世話になった先輩に2年ぶりに会った。「めっちゃ変わった、ちゃんと日本語話せるようになってる」と言われた。一番殻に篭っていた時期、表情も変わらず言葉もあまり出てこない状況で、その先輩だけは私の感情とか考えを上手く汲み取ってくれていた。ほぼアイコンタクトだけだったのに、何故あんなにも理解することが出来たのだろう。妹のようだと言ってくれていたし、私も兄のように慕っていた。だから時折、困ったようにして「今日も喋れへんか〜」と言わせてしまうことが、申し訳なくて仕方なかった。そんな人に「話せるようになってる」と言われたのは凄く嬉しかったけれど、同時に、その頃の私を好いてくれていた人と築き上げた関係性が無くなってしまったように思えて、少し落ち込んでしまった。嫌な断捨離だ。
その日はいろんな先輩たちに会えた。そして、会う人会う人みんなが驚いた。顔が変わった、服装が変わった、声が変わった、話し方が変わった、当時私が忌み嫌っていた当時の私は、時の流れに乗れなかったらしい。(必死で生きていたのに。)しかしながら、憑き物が取れたように感じるのも事実で、清々しさもあった。いや、むしろそちらの方が強かった。こんなにも自分に注目が集まり褒められることも無かったので照れていると、兄のような先輩は、「そういう所は変わってへんなあ」とにこにこしていた。あの頃の自分まだおったんかい。ほなええか
人は一面だけには留まれない。裏表でもまだ足りない。日々を過ごしてゆく中で、長い年月をかけてどんどん多面的になってゆく。だけど決して、多重人格などでもない。2メートルにも満たないこんな小さな器の中に、どれだけ深い宇宙なり、海なり、なんなりを生み出すことが出来るのか。こっからが勝負なら有り難い。
変化は寂しい。通い詰めた駄菓子屋が廃業したことも、地元の皆んなの商店街に観光客に媚びたカフェが出来たことも、音楽が響かなくなってきたことも、テレビが面白くないことも、じいちゃんが居ない家も。過去がどんどん無くなってゆく。
でも変化は、偶に楽しい。今と未来が増えてゆく。
カッケー
馬場光