コンドルと繋がった時の話
エステバンさんとのツアーはまだまだ続いた。
サン・マルコス・シエラスでの生まれ直すような不思議な体験から10日も経たぬうちに、今度は1500km離れたパタゴニアの町サン・カルロス・デ・バリローチェにいた。南米アルゼンチンにとっての南は、日本にとっての北だから、津軽衆の僕には澄んだ空気と水の清らかさが肌になじみ、初めて訪れたようには感じられなかった。着いた瞬間に「ここに住みたい」と思ったほどだった。
ところで、サン・マルコス・シエラスで出逢ったコメチンゴンの爺さんとは、その後も幾度となくこの村を訪れては演奏会をしているのだけど(余談だが、コロナ禍直前に行った公演には、僕に会っておこうということで10人ほどのシャーマンたちが山を下りてやって来て、僕を取り囲むように座りながら強烈な力を発し続けていたもんだから、凄まじい音の儀式になってしまった…)、あの旅以来会っていない。しかし、奥さんからはその後すぐにフェイスブックで友人申請があって、コンタクトは取れるようになっている。それどころか、彼の奥さんに勝手に"シャーマンの会"のようなフェイスブック・グループに入れられてしまい、時折、「母が病気で…治していただけませんでしょうか?」といったメッセージが送られてくる。その度に「僕はシャーマンではありません。病院に連れて行ってあげて下さい」などと返している。困ったものである。
話を戻そう。
サン・カルロス・デ・バリローチェでの演奏会には、今となっては僕の音楽家としての大切な祖母である名歌手のパジータ・ソラさん(あのパジョ・ソラの娘)も参加してくれて、大いに盛り上がり、忘れ難いほど美しい時間となった。
さぁさぁ乾杯だ!と言って楽屋に戻ると、探検家のような身なりの紳士が楽屋ドアをノックして訪ねてきて、僕の手を握りしめてこう言う。「あなたをどうしても連れていきたいところがあるんだ。」
正直、「またか…」と思った。僕にはおじさんに連れ去られる才能みたいなものがあるのかもしれないとも思った。けれども、僕の野性によれば、断るという選択肢はなく、どこへ行くかも詳しく訊かずに、「行きましょう」と言ってしまったもんだから、彼は少しばかり驚いた様子だった。
彼はロレンソ・シンプソンさんという獣医でありパタゴニア地域の鳥類研究における第一人者で、35年以上にわたりとあるコンドルの住処の保護と調査に携わっており、どうやら僕をその山へ連れていきたいということだった。
翌朝、日が昇らぬうちに出て、デサフィオ(スペイン語で「挑戦」を意味する)と名付けられたその山へ向かう。彼曰く、8万年ほど前に地表に現れた火山性のこの岩山には水が堀り出した洞窟のような穴が無数に空いていて、まるでマンションのようにその穴を上手く使って現在40羽ほどのコンドルが定住していて、羽休めのために往来するものは500羽近いということだった。(ちなみにこの山は私有地で、立ち入るには先ずオーナーとマテを飲み交わして信頼を得る必要がある。基本的に今はロレンソさん以外は入ることが出来ない。)
山を登り始めるところに用意された崩れかけた山小屋のところまで車で向かう途中、朝陽を浴びながら20羽ほどのコンドルが何か食べ物に集まっていた。僕はとてつもなく偉大なものに会いに行くのだという気がした。
山小屋に着くと、ロレンソさんの顔が少し曇った。「実は2週間ほど前に腰の手術をしたばかりでね…今日は登れる自信がないので、一人で登ってくれないか?あの辺に行けば、きっと何羽かいるはずだから」と言って、空を指さした。僕は唖然として、同伴してくれていたパジータさん(彼女はこの時すでに80歳近かったので、登るつもりは毛頭ない)の顔を見たら、鳥類観察用の双眼鏡を手に取り、「大丈夫!これでちゃんと見守ってるから」と言った。
僕はとぼとぼと歩き始めた。
そして、10分もしないうちに何だかとげとげした背の低い木の茂みに迷い込んでしまった。痛いし、ひっつくし、どっちに行けばいいのか分からないしで、正にてんやわんやの一人相撲。やっとの思いでその茂みを抜け出した時、僕の目に飛び込んで来たのは一羽のコンドルの亡骸だった。
僕はその場に立ち尽くし、ただただその姿を見ていた。もちろん肉は朽ちていて、骨と羽だけになっていたが、はっきりとコンドルだと分る形が保たれていた。すっと涙がこぼれ、全身がしびれるようで、次の一歩をなかなか踏み出せなかった。
しばらくしてやっと落ち着きを取り戻し、その亡骸を持って来ていた織物の布に包み、大切に抱えながら山を登り続けた。その間ずっと、姿は全く見えなかったけど、遠くからある視線を感じていた。
僕はその岩山全体に音が響きそうな洞窟を見つけ、先ほど包んだ亡骸を布の上に広げて、いくつかのお気に入りの笛と共に並べて、祭壇をこしらえた。そして、生まれて初めて、音による儀式をした。そう、コンドルのために。この亡骸をそのままにしておくことも出来なかったし、黙って持って帰るのはもっとやってはいけないことな気がした。許しを請う必要があった。風と僕の声と笛の音だけがあり、気付くと僕はその亡骸のコンドルになって空を飛んでいるように身体中の力が抜けていった。
どうやら許してもらえたようだと感じたので、僕はそのコンドルの亡骸と共に山を下り始めた。
すると、はるか遠くから先ほどから僕を見ていたコンドルがとてつもない勢いで飛んできて、僕の頭上2、3mほどのところで旋回して消えていった。恐怖は微塵もなかった。これほど美しい存在がこの地球にはあるのかと、また涙がこぼれた。
山小屋に戻るとロレンソさんが化け物にでも遭遇したような顔をして、僕をじっと見て、「君は何者なんだ?」と言う。彼は双眼鏡で一部始終をずっと見ていた。僕は「音楽家です。日本から来ました」と答えた。「いや、そんなことではなく…実は私でさえコンドルの、こうして自然な形で死んだ姿を見たことがなかったんだ」と語り始めた。
コンドルは70~80年生きるという。
つがいは一生離れず、一人立ちまで6年ほどかかる子育ても、完全に夫婦で平等に担う。非常に社会的で、このデサフィオに住むコンドルたちは4000年以上、同じトイレを使っていたりする。
生きた動物を狩りせず、死んだばかりの大きな動物を食べる。そのため1日300km以上飛ばなければいけないこともしばしばだそうだ。
年老いると、もう飛ぶことができないことを悟る日がやってくる。そうなるとおよそ一晩かけて、呼吸数と心拍数を少しずつ落していく。そして、最後に残された力で辿り着ける最も高いところまで登り、その生涯において最初で最後、翼を閉じたまま身を投げる。その身体は家族が食べ、羽や骨は住処に持ち帰られる。おそらく弔いがあるのだろう。コンドルは動物で唯一、自殺するのだ。いや、死の瞬間を自らが決める生き物なのだ。
ロレンソさんは「さっき飛んできたのは、おそらくその亡骸のコンドルの夫か息子だ。このコンドルが死んだ時、雪が降り始めた。冬の間きっと探し続けていたはずだ。雪が融けて、君が来た。そして、彼女を見つけてくれた。"ありがとう"と言いたかったんだよ」と言ってくれた。その話を聞いて、また涙が頬をつたった。
大切に扱うことを約束し、その亡骸を持ち帰り、骨はケーナに、羽軸はアンタラに、大きな羽はそのままの形で、楽器にして、新たな命を生きてもらうことにした。
この出来事があって以来、僕がパタゴニアに足を運ぶと、コンドルがやって来るようになった。笛の音を聴いて飛んできたり、ふと頭上を見上げるとそこにいたり…。声を持たないこの鳥が、いつでも僕を見守ってくれていると信じている。
*最初の写真は音の儀式をやっている最中にパジータさんが双眼鏡を使って撮ってくれたものです。
*この記事を気に入っていただけたら、是非「サポート」や「スキ」、SNSでのシェアなどで応援いただけるとありがたいです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?