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笛は”つなぐもの”なのかもしれない

 「シンプルを極めるとピュアになる。」
これは、”寿司の神様”とも称される「すきやばし二郎」の小野二郎を追ったドキュメンタリー映画『二郎は寿司の夢を見る』で、料理評論家の山本益博が二郎の寿司を評して放った一言だけれども、折に触れて僕はこの言葉を思い出す。
 
 先月頭に人生で20何回目かの引越しをして、大阪府貝塚市に暮らし始めた。これまでに、地球の裏側への大移動もあったし、”外国人”として生きていた頃は3か月毎に転居を迫られる期間もあったりしたので、正確な”総引越し回数”は分らないし、自分の中では”長期の旅”との違いも曖昧なのだけれども、生涯で93回も屋移りしたという葛飾北斎にはまだまだ遠く及ばないことは確かだ。しかしまぁ、毎回「もう、いやだなぁ…」と思う。そして、引越しには”削ぎ落す”ことや”手離す”ことがつきものだから、住んだ期間がいくら短くても、なぜか増えてしまっている物の量に、軽いめまいを覚えながら「まだまだだなぁ…」と思うのである。
 僕は10代の頃には床下に暮らさなければいけなかった時期もあったぐらいだから、家というものに元来そこまでの執着も所有欲もないのだけれども、今回の引越しは人生の大きな転機も伴っていたからだろう、家というのは”建物”のことではないのだなと、初めて実感を持って理解した気がする。

 それはそうと、あと2か月半ほどしか残されていない2024年の個人的なテーマが、後付けではあるのだけれども、この”削ぎ落すこと”もしくは”手離すこと”だったのかもしれないと最近考えている。
 というのも、2月の名古屋でのとある出逢いから一気に、アルゼンチンでのあんな経験こんな経験、そのほか南米を中心にこれまで運よく携わってきた様々な、そして本当に貴重な仕事の経験が、物心つく前から”暗黙知”や”身体知”の次元で僕の存在の根源の部分に備わってきた術技や美意識みたいなものと、するりと一本の線で繋がったというか、同じ輪の中に入ったという実感があり、新たな役割を担わされ始めたような感覚を持ち始めたのである。事実、何かが急激に、しかしとても自然な流れで変化している。
 それは、がちゃつき、ばらばらだったインプットが、大河に統一され、その流れを常に豊かにしながら、大海に流れ込むような感覚なのだ。
 
 具体的にいくつか例を挙げてみよう。
 たとえば、”曲を書く”ということの意義が大きく変わった。書き残すことはより躊躇を伴う行為になり、同時に、演奏されることの時空的な射程はぐっと広がった。さらに楽譜は、人間にしかできない演奏を前提としたことで、音楽として生きる人間ならば理解できるという信頼をもとに、必要最低限の音を書き留めた”メモ”になった。そうして僕の音楽は僕の名前を離れる準備をし始め、僕にとっての作曲は純粋さを得る。
 たとえば、”ケーナ”が僕にとって最も使い慣れた演奏のための道具であることに変わりはないけれども、僕の音楽そのものはケーナを離れ得るし、もっともっと広大だということがはっきりと示された。そして、(どうも偉そうで手前味噌な言い方になってしまうのだけれども)、僕がケーナを演奏している時も、それは”ケーナの演奏”を超えた行為、もっと純粋に”息を操り、音を鳴らす”行為であるという、笛の根源に軸足が置かれた。
 具体的にと言いながら、抽象度がぐっと上がってしまった。

 ところで先日、出雲は神名火山の麓に暮らす82歳の伝説の笛師・樋野達夫(室達)氏に会いに行った。というのも、数か月前から龍笛とか神楽笛といった日本の横笛がどうも気になって仕方なくなって色々調べていたら、彼に関するいくつかの記事を見つけたのだ。その中で語られていた「高橋竹山から笛を譲り受けて、笛師としての人生が始まった」というエピソードに勝手に親近感を覚え、今時珍しく電話帳で調べてアポを取り、わざわざ出かけて行ったのである。
 だからそもそもは龍笛を手に入れるつもりだったのだが、笛だらけの長座卓を前に4時間ノンストップで繰り広げられた、大きな気付きと確信に満ちた邂逅の対話の末、僕は思わず「先生、僕にはどの笛が合っていますか?」とお任せしてしまい、「あなたにはこれでしょうか…よくわからない笛です。神楽系ですが、もっと古い、独特の何とも言えない律を持っています」と全く別の、しかし、天地を結ぶような声を持った笛を渡されて帰ってきた。一目惚れならぬ”一吹き惚れ”というやつだ。
 病で片肺を失った後も数年にわたり続けたという演奏は、ついに80歳の時に引退されたというが、製作と研究はより一層熱を入れて続けておられるという。自給自足の農家でもある樋野氏の笛は、天の恵みを受けて、水の言伝を蓄え、土に育まれる稲穂のような圧巻の佇まいで、僕はこれほど美しい笛をほかに見たことがなかった。
 笛の道を実直に歩み続ける勇気を与えてくれた良い出逢いだった。樋野先生のお宅をあとにし、ふと見上げた出雲の空は広く優しく、僕の心の曇りや迷いもすっかり晴れていた。本当に出掛けて行って良かった。
 出雲から大阪への帰りしな、大好きな枚方の友”ふえ”さんのお宅を訪ねたのも、単なる偶然ではなかったと思う。

 何だか取り留めのない記事になってしまったが、それもまた好い。
 要するにこのところ”笛師”という呼称に憧れているのだ。

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