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「人生に意味なんてないよ」と彼は言った。だったら生まないで欲しかった。

人生の意味とはなんだろう。
哲学が生まれた時から、いやそのもっと前からきっと、“思考”をはじめた人間がみな考えてきたテーマだと思う。

「人間は考える葦である」で有名な天才パスカルは最後、「神を信じよ」と結論づけた。
無神論の立場を貫いたイギリスの哲学者ラッセルは「熱意が持てることを探せ」と言った。

自分以外の存在に、その意味づけを依存する説も、自分の中に答えを見つける説も、どちらもいまだに根強く生き残っており、誰もが納得できるような答えは見つかっていない。

私はずっとその答えが欲しかった。


私が生まれた家庭はそれなりに貧乏で、病院にいったらきっと今流行りのADHDやアスペなど発達障害と診断される可能性の高い親のもと、自分自身も何かしら普通に溶け込みきれない違和感を抱えて生きてきた。

「あんたみたいな人間、この世で1番嫌いなタイプ」
「ぶくぶく太って気持ち悪いから目の前に現れないで」
「あの子は可愛げがあっていいね。交換してほしいわ」

さっきまで仲良く笑い合っていたのに、5分後突然怒り出し、人格を否定するような罵詈雑言の嵐。

そんな怒号の中で知らんぷりする父親。

あまりにショックな言葉ばかりで、私はいつも記憶を失い、何が原因で怒られたのかわからなくなり、結局毎日同じことを繰り返すのだった。


大学生でようやく家出をするまでの18年間、ずっとそんな日常を送ってきたものだから、私は背後で物音がすると「殴られる!」と思ってびくついてしまったり、誰かに好きだと言われても、それが数分後には変わってしまうんじゃないかと疑ったり、うまく人との関係性を築くことができなくなっていた。

そんな私が恋をする相手は、いつも決まって年上のモラハラみのある男性だった。

デートをすっぽかしたり、嫌味を言われたりする度に、「ああこの人は私より上の立場の人だから、この人の言う通りに生きていればいいんだ」となぜか安心して、もっと依存が深まってしまう悪循環。

ちょうど半年前の恋人に(今その人は音信不通になってしまった)、薄暗いタコス屋さんで言われた言葉が頭から消えない。

「私は自分がいろいろ苦労して生きてきたからこそ、同じような思いをしている人に、ちょっとでも新しい選択肢を提示したり、役に立てるような仕事がしたいの」
「何言ってるの。それ本気で言ってる?」
「え、何かおかしいこと言ったかな」
「あのさあ、人生に意味なんてないんだよ。そんな無理矢理キレイゴトで自分の人生に意味をつけようなんて浅はかな考え方やめた方がいいよ。そんな赤の他人を救うくらいなら、身近な家族をまず幸せにしてから言いな。ダサいから」
「人生に意味なんてないってわかってる!わかってるから、自分で意味づけするしかないんじゃん」

元恋人は、不機嫌そうにビールを一口飲んで、「この話やめるか」と言った。
彼に会ったのは、その日が最後だった。


人生の意味なんて、誰かに決められるもんじゃない。意味なんてないんだから、自分で考えるしかない。もしくはそんな考えても仕方のないことは、考えること自体をやめた方がいいのかもしれない。

でも、それでも、私はやっぱり諦められないのだ。

どんな生物も当たり前のように、生きて、繁殖して、死んで、次の世代が生きて、を繰り返しているけど、どうしてそんなことを繰り返すのか。

繁殖して、拡大したいという本能が生物共通なのだとしたら、今の子どもを産みたい人が減り続ける少子化社会を生きる私たちは、生物としての本能を失いつつあるというのか。

どうして産まれた子どもが不幸の多い人生を送ることになる可能性があるのに、半ば強制的に新しい人生をスタートさせるのか。

半強制的に生きさせられているのだから、せめて安楽死という死を選ぶ権利も与えてくれていいのではないか。

本当は私、「生まれてきてよかった」と言ってみたい。
「生まないで欲しかった」なんて、思いたくない。

だから今日もせっせと哲学書を読み、人に話を聞いて、自分なりに目の前の人を大切にし、熱意を感じられることに集中して、いつか自分なりの答えが見つかることを目指して、一生懸命、文字通り命を尽くして、毎日を生きている。


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