拒否できるありがたさ
人間関係は難しい。
最近夜になると考えても仕方がない事ばかり永遠と考えてしまう。でも結局考えても仕方がない事だから答えは出ずに考えることに疲れてコテンと寝てしまう。
私は私の弱さをうまく愛してあげる事ができない。
嫉妬してしまう自分や落ち込んでいる自分、自信を無くしてしまっている自分が少しでも顔を覗かせていると、『ダメダメ!君の出番はないんだから!あっちに行ってよ!』と引っ込めてしまう。
どうしてそんな弱い自分をぎゅっと抱きしめて受け止めてあげる事ができないんだろうとか考え始めるともうこれはこれは負のループに陥ってしまい気を病んでしまう。
夜は恐ろしいものだなと思うと同時に、太陽の偉大さに両の手をこすり合わせてしまう。
はて、なんの話をしようとしてたのかしら。
あ、そうそう『拒否できるありがたさ』について。
みんなは日常生活の中で『あ、これ嫌だ!』と思った時にどれくらい拒否してる?
この拒否っていう行動には2つの意味があるんじゃないかなと感じている。
まず、ひとつ目は拒否をする相手とのこれからの人間関係への諦めだと思っていて。
別に他の人にされても嫌じゃないけど、この人にされるのは嫌!だからもうしないで!!あなたとは仲良くする気もないから!っていうニュアンスの拒否。
これは自分が幸せに生きていく上で必要なスキルのような気もしている。
わざわざ、一緒にいて嫌な気分になる人と我慢して人間関係を構築していかなくていいと思うんだよな。まあ、仕事とかになると話は別だけどさ。
そしてもう一つは安心している拒否。これどういう事?って思うかもしれない。相手の何か行動を拒否したとする、多くの場合は相手がどう思うかなとか気にすると思うんだけど、全くとは言わないけどあまり気にしない拒否がある。それが安心している拒否。
誰かに対して、『それは嫌い、それは嫌だ、やめて』って言うのって勇気がいることのように思う。
だって、拒否されたら相手は嬉しい気持ちにはならないと思うから。だから、人は拒否する時には人を選ぶし、勇気を振り絞る。
けど、本当に自分が心を許している相手だったらどうだろう?勇気がいるのだろうか?
例えばだけど、考えてみてほしい。
家族や恋人や親友に対して勇気を持って拒否している人がどれくらいいるだろう。
少なくとも私は上記のような関係の人たちに拒否をする時勇気を振り絞らなくてもいい。
それは、私が全力で拒否をしたって嫌われないだろうという気持ちがあるから。
これが良いことか悪いことなのかは一旦置いておいて、これは幸せなことなんだよと言いたい。
みんな反抗期を経験したんじゃないかと思うけど、今考えてみるとめちゃくちゃ理不尽なことで怒ってたなあとか思わない?でも、そこまで怒ることができるってことは相手に対して100%心を開いてるからじゃないのかな。
こんな事言ったくらいできっと親は私のことを嫌いになったり見捨てたりしない。と心のどこかで安心していたからそんなに簡単に拒否ができたのではないかな。
自分が拒否をする時だけじゃなくって、負の感情をぶちまける時、遠慮なくぶちまけてぶつけられる人がいるのは本当にありがたいこと。
相手から自分への愛を確かに感じているから出来ることなんじゃないかなと思う。
特に私は人に負の感情をぶつけたり弱いところをさらけ出したりするのが苦手だから、私のそういう面を見せてもこの人は私のことをきっと嫌いになんかならずに、抱きしめてくれるだろうなという人にしか見せられない。
これは私がこれから改善していきたいことではあるんだけど、夜中にふと考えていて1人でもそんな存在がいるからこそ、私は他の99人の前でかっこよくキラキラしていられるんだなと思ったり。
きっとみんなにもそんな人がいるだろうから、そんな人をやっぱり大切にしてほしいなあという気持ちと、感情をぶつけることは悪いことじゃないよって、あなたが相手からの愛をしっかり感じられている証拠なんだよって言ってあげたいな。
モヤモヤしてたから文章にしてみたけどやっぱりスッキリした。これからはモヤモヤしてイライラするんじゃなくて頭の中をこうやって整理してあげるぞ〜。
という、夜中の独り言でした。
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