伝道師への道・満ちているとはどんな感覚なのか
ここに何度か書いているし、受講生の明代ちゃんにも何度も伝えていますが、心がほどけるおむすびはおむすび屋さんになるためのおむすびではありません。
もちろん家族やパートナー、大切な誰かを喜ばせることのできるおむすびではありますが、それよりも前の段階で、むすんだ自分、それを食べた自分をよろこばせたり癒したり整えたりできるおむすびであることが、最大の特徴であり存在意義だと思っています。
自分が満ちているから人を幸せにできる、喜ばせることができる。
これは誰にでも当てはまることだと思います。仕事とか家事とか子育てとか役割も関係なく。全てにおいて”誰かのためだけ”に続けることはとてもとてもしんどいことじゃないかとわたしは感じています。
たとえたかがおむすびをむすぶことだとしても。
家族のため、子どものため、パートナーのためのおむすびでもいいんです。朝ごはんのため、お弁当でもいい。でもね、それが自分の悦びとリンクしていなければむすび続けることはできないと思うのです。
満ちている、とはどういう感覚なのか。
「悦び」「喜び」の違いはご存知でしょうか。
「悦び」とは絶対的であり、「喜び」は相対的。
「悦び」は内から湧いてきて感じるもので、「喜び」は外から与えてもらって感じるものです。
”ご自愛”とか”自分を満たす”なんていう言葉がありますが、そんな言葉を聞いてみなさんはどんな体感覚を覚えるでしょうか。
コップに波波と水を注ぐような感じ?
そのコップの水が溢れたら満たされた、という感覚でしょうか。
わたしはそう感じていた時期がありました。
だけどよくよく考えてみてください。
コップに水を「入れ続け」「溢れる」というは?
入れ続けないと溢れない=満たされていない、ってことになりませんか?
わたしはこれは「喜び」だと思います。
自分を喜ばせるために何を注ぎますか?
お金を使って物を買う?おしゃれなカフェでランチをする?エステやサロンへ行って外見を磨く?
決してそれらを否定はしません。わたしだって散々してきましたもん(笑)
だけど注ぎ続けるとしたら、結構な労力を必要としませんか?
注ぎ続けるためにお金を稼ぐことを悪いとは思いません。でもわたしの感覚では「キリがない」と感じるんです。
満ちている状態とは?
満たされるとは溢れるということではなく、循環している感覚に近いように感じます。
「悦び」で満ちているということです。
ちょっとイメージしてみてください。
透明感のある水が、小川をチョロチョロ流れているような。
川の水が枯れることなく水面がキラキラしながら水が流れていくような。
それが常に頭のてっぺんからお腹の真ん中を流れ大地へ流れ出ていくような感じです。
「枯れることがない」というイメージが近いと思います。
これって、入れ物に注ぎ続けるということではありません。
満ちている状態である自分をエネルギー体として感じた時
透明であること
清々しくある
クリアな感覚である
こんなイメージです。
「してあげる」をしない
満ちている状態というのは、ただそこに居るだけでも満ちている感覚があります。そういられるようになると「○○してあげる」という行動がなくなるんです。
余計な手出しがなくなくなるんですね。
この「余計な手出し」の裏には「してあげないと(自分の存在価値がない)」と思っている節がある可能性が高いわけですよね。
「手を出すこと」と「手をかけること」は全く別物です。
今ここに居る、今ここに寄り添う、ができるようになることは「手をかける」の本質の理解につながっています。それによって「手を出したくなる」がなくなります。
当然、ある日できるようになるわけでなく練習が必要なわけですが(それがおむすびをむすび続けることなわけで)それを続けることによって人と自分がどういう距離感でいたいのかも、よくよくわかるようになっていきます。(我が子や大切な人も含めた全ての人です)
それを自覚できるようになると「好き」にも「嫌い」にも素直になれるから、結果的に「自分をよろこばせる」につながるんですよね。
おむすびをむすびながら手数をどんどん減らしていきます。手出しを減らす。
そして、手をかける、を体感的に学んでいくんですね。
▼伝道師への道マガジン▼
伝道師に興味がない方でも
心がほどけるおむすびがどう違うのか
感じてもらえるんじゃないと思います。