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無責任な情報は容易に組織を壊す ~"おせっかい正義感マン"を放置するな~

「みんなそう言ってますよ」「匿名でこんな声が届いているのですが、どう思いますか?」

こんな言葉を聞くこと、少なくないのでは無いでしょうか。

もしそうだとしたら、それは「組織崩壊の予兆」であり、経営層は危機感を持つ必要があります。

凄い大げさに聞こえるかもしれませんが、なぜこういった発言が問題であり、対処しなくてはならないのか。

安冨氏の「ドラッカーと論語」を経由して、ドラッカーの考えを引用しつつ、解説してみたいと思います。


悪気が無くても、情報の質は簡単に落ちる

「みんな」って何人?

突然ですが質問です。

我々が「みんな」とか「いつも」という表現を使うに要する目撃回数は何回だと思いますか?

こちらは、「3回」だと言われています。

これは太古の時代、ホモサピエンスが異変に対して早期にアクションし、自身の身を守るために設定された水準だと言われています。

その時代においては、「3回の異変」は最早「異常」であり、アクションに移す価値ありだったわけです。

意味のない情報が蔓延し、行動の質が落ちる。

一方、これを現代社会に、例えば100人の会社に当てはめてみるとどうでしょうか。

Aさん・Bさん・Cさんの3人の発言を聞いたDさんが、あなた(Eさん)に「"みんな"問題だと言っています!!」と言ってきたとします。

ですが、「みんな」の由来である「皆」は「そこにいる人全て」という意味なので、受け手はが「少なくとも50人は言ってるんだろうな」と思っても不思議ではありません。

そうすると、このたった3人の意見を元に、100人の組織に変化を起こすような施策が走ってしまうかもしれません。その途中で全然必要ないことが分かって止まったとしても、完全に無駄なイベントです。

また、受け手が受け取らなかったとしても、「なんで"みんな"が問題だと言っているのに、取り合ってくれないんですか!」といったコメントが発生するなど、結局は不要な工数と不要なコンフリクトが生まれます。

こういった「無駄で不要な事態」が発生しないためにはどうしたらよいのでしょうか?

間接話法が全ての元凶

情報責任の消失

今回の問題点は以下の3つです。

1. A~Cさんは何か「意図」や「目的」を以て情報(不満)を発信しているわけではない
2. Dさんは情報を「集約」「伝達」しただけで、A~Cさんの意図や目的、文脈を理解していない。そして、Dさん本人に「意図」が無い
3. Eさんは出所も意図も何も分からない状態で「情報」を受け取っている

この状態をドラッカーは「情報責任が失われている状態」と表現します。

ドラッカーは組織において「全員が情報に関して責任を持つことが必要」と述べており、具体的には著書で以下のように綴っています。

システムの鍵は、誰もが「この組織の誰が何のための情報を私に依存しているのか。逆に、私は誰に依存しているのか」を問う事である。

(出典:Management Revised Edition)

ここで注目すべきは「情報の発信者」のみならず「受信者」にも責任を求めている点です。「責任を持って受け取る」ことが出来ない状況はその時点で破綻している、というのがドラッカーの考えです。

ネット上の掲示板がその極地だが、社内でも起こり得る

古くは「2ちゃんねる」、今で言えばXを中心としたSNSプラットフォーム全てがそうですが、当然ここに「情報責任」などという言葉は存在しません。

ですが、一つの会社、という極めて小さいフィールドでも、類似のことは発生します。

例えば、社内のイントラや公開アンケートに「"みんな"が言っている否定的なコメントを載せる」ケース。

「情報責任無く」発信された情報を、不特定多数の社員が「責任の取れない形」で受信してしまう。それが一つの「事実」になってしまい、無から有が生まれてしまう

また、上記の「Eさん」が経営層の一人で、その歪んだ情報が経営会議などで報告され、それが「事実」になってしまうケースだってあり得ます。

つまり、一旦「責任のない情報」が発信されると、「責任の取れない受信者」が無限発生するわけです。

間接話法無くても統治出来る

ここまで読んでいただいて、「間接話法が悪なのは分かったけど、自分の会社の規模じゃ、間接話法なくすのなんて無理だよ」と思われた方もおられるかと思います。

しかしドラッカーは、イギリスのインド統治を引き合いに出し、「可能だ」と言い切ります。以下はその事例詳細です。

・イギリスは18世紀半ばからの200年間、膨大な数の人口を有するインドをわずか1,000人足らずで統治していた。

・インド全土を9つの州に分け、それを細かく地域で分けた。それぞれの州に9人の政務官を置き、その下に100人の監督官を置いた。

・監督官は大変に詳細に書いた「報告書」を月に一度政務官に直接届け、それに対して政務官は必ず詳細な「返事」を書いた。

ここでのポイントは「現場の人間とマネージャーが、どちらも"発信者"と"受信者"の役目を果たす仕組みになっている」ことです。

他の統治のケースでは、政務官と監督官の間に「中間管理職」を置いていたが、イギリスはそれをやらなかった。

言い換えると、「発信者でも受信者でもない人間を極力作らない」ことが肝であるという事になります。

「情報責任」を担保し続けるために出来ること

「情報の出し手と受け手が共に情報責任を持つこと」が重要だとして、その状態を作り、維持するためにはどうするべきなのでしょうか。

ここでは、それに向けた解決策をいくつか提示します。

①極力フラットにする

とてもチープな解決策ですが、やはり「フラット」は重要なのです。

情報のバイパスが出来れば出来るほど、情報責任は指数関数的に失われていく。上司1人、部下5人のチームに中間管理職が入ったら、この6人が一気に「情報責任」を失うかもしれません。

「意思決定が速い」とか色んなメリットがありますが、「情報責任」という観点でもフラットは非常に重要なのです。

②フィードバック機構を具備する

フラットにしただけでは起こらないのが「誰もが発信者と受信者になる」ということ。「一方通行フラット組織」は沢山存在します。

出来れば「文化」としてフィードバックする形になれば最高ですし、文化にするためにも「フィードバックしなければならない」仕組みを多数導入することをお勧めします。

なお、セルソースでは評価フィードバック後に「評価の納得感」を被評価者にアンケートを取るといった仕組みを導入しています。

③「おせっかい正義感マン」を放置しない

人数が増えてくると、会社の中に必ず「おせっかい正義感マン」が出てきます。この人の特徴は以下の通りです。

・オフィスにいることが多い
・他人の不満や意見を聞いたら、すぐそれを誰かに伝える
・情報の出所を明かさない
・「自分はこう思う」という意見を付さない

こういう人が一人いると、①情報の非対称性が生まれ、②情報そのものが歪み、③その人の周囲にいる"発信者"のモラルが急降下し、④受信者はただただ混乱し、⑤組織全体の情報責任が失われる、ということが起こります。

一つ一つが大きな「実害」を及ぼすわけではなく、また悪気が無いケースが多いのでつい放置してしまうのですが、シロアリのように組織を地盤から食い荒らします。

経営層やリーダーはこういう人を見つけたら、論理立ててその行為の危険性を説明し、「不安や不満の声を聞いたら、極力直接繋ぐよう」依頼してください。

(Canvaが作った「おせっかい正義感マン」笑)

④ミドルマネジメントに「無責任な情報をそのまま繋がない、拡散しない」ことを徹底させる

上記に書いた通り、「Eさん」がそのまま会議やら飲み会とかで情報を拡散すると、無数の「無責任な受信者」を濫造することになります。

なので、ポイントは「Eさんがちゃんと止めて、逆回転させること」です。具体的には、まずA~Cさんと話す。一次情報が確認出来ない情報は拡散しない。

特に若い会社だと、役職者でも少しゴシップ的なアイテムも面白がって拡散してしまったりするので、所謂「高潔性」は非常に重要です。

⑤完全匿名のアンケートを取らない

「完全匿名」と「情報責任」は完全に相反する概念です。

発信者のモラル/責任を失わせる手法ですし、受信者もどれだけ責任持って受け取ろうとしても、どうしようもない。

大企業人事の方から「完全匿名にしないと、本音を書いてくれない」というコメントを良く聞きますが、その行為自体が更に情報責任を失わせるものであり、自ら沼を深くしています。

なお、「完全実名」である必要はありません。「1・2だけが見れる」ということを事前に説明するだけでも、少なくとも発信者側の責任は保たれますし、開示されている人間が責任持って情報を取り扱えばOKです。

スピークアップだけは例外

なお、ここまで書いてきた話は、「スピークアップ」だけには当てはまりません。

本当に深刻なハラスメントを受けている人は、声を上げられないことが多い。こういう時は「おせっかい正義感マン」が最高の働きをすることがあります。

勿論、それすら思い込みの可能性はあるのですが、ある程度無責任にも「リスク」を感じたら早めに共有していくことが、本当の「有事」を防ぐことにもつながります。

おわりに

「情報の民主化」が何より重要である。そう信じて前職で90ページのレポートを書き、今の会社の情報設計も推し進めてきました。

しかし、それをやるにつれて「変なノイズ」のようなものも増えてきて、そして私自身も変なバイアスに掛かる時がありました。

「情報過多はそれはそれで問題なのか・・・??」と自問自答していたところに、この「ドラッカーと論語」に出会い、「情報責任」という概念に出会えたことで、自分の「情報と組織」に対する向き合い方が整理出来ました。

セルソースもこれからまだまだ大きくなっていく中で、同じような悩みは増えていくのでしょうが、孔子が求めるように、常に学び続けて行きたいと思います。

ではまた、次回お会いしましょう。


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