1993年冬、北京―モスクワ国際列車 女二人の珍道中 時々行商人⑨
1993年1月23日 4日目その2 ついに食堂車デビュー!
それにしても、ほんの一週間ほど使わなかっただけなのに日本語からものすごく長い間離れていたような気がするってことに、我ながら驚いた。そして同時に、「そうだ! 言葉を話すのって、そもそもこれくらいスイスイラクラクなことだったじゃないか!」と頭の中で叫びながら、母語と自分との一体感を噛み締めていた。おそらく吉岡さんも同じように感じていただろう。グストーたちとアンナが出会ったときも、多分そうだったんじゃないか。
当たり前に目の前にあるもの、あって当然のものに対し、感謝の念が自然と湧いてくることはほぼない。少なくとも私はそうだ。酸素がないと生きていけないと知ってはいるが、私は朝目覚めるたびに「酸素があるから今日も生きてる! ありがとう酸素! 愛してるよ!」なんて涙を流して喜んだりしない。だから、右も左も分からない海外で日本語断ちを強いられているときに、母語で意思疎通できる相手がポコッと現れてくれることがこんなに嬉しいだなんて思ってもみなかったのだ。中国に留学しているじゃないかと言われそうだが、留学先の大学には日本人留学生が多いので、中国にいてもなお、最も使用頻度の高い言語は日本語なのである。だから、もし吉岡さんと私が逆の立場で、私が一人旅の途中で荷物を盗られて意気消沈していたとしたら、嬉しさと安堵のあまり、声をかけてくれた吉岡さんにうっかり惚れてしまっていたかもしれない。吉岡さん:「それは大変でしたね、大丈夫ですか?」、私:「はい(トゥンク)」……
……だが吉岡さんに私に惚れた様子はみじんもなく、それどころか「え、事前に何も用意してない? ホテルも予約してないんですか? ガイドもなし? それは……」と一瞬絶句し、口には出さないが「ソンナイキアタリバッタリナニンゲントハ、カチカンガチガウ」と目で語った。そしてひとしきりおしゃべりを終えると「じゃあ、また」「はい、では」と、状況さえ違えば運命の相手だったかもしれない二人は、あっさりサヨウナラしたのだった。
実際には惚れてもいないのに想像失恋までしてしまうなんて、つくづく発想がおバカである。つまり、そんな妄想でもしていないと暇がつぶせないくらい、列車の旅に飽きてきたということだ。だが、あることを思い出した瞬間、そんなたわごとは脳裏から消えた。今日は待ちに待った、食堂車でのディナーという一大イベントが待っているじゃないか。ロシア国内に入って食堂車がロシアのものに入れ替わったからだ。
この記念すべき夕食は同室の四人で楽しみたいので、ドゥオドゥオが別の部屋の男性中国人行商人に、私たちが食事している間はこの部屋にいてくれないかと頼んでいた。吉岡さんのように、トイレなどでほんの一瞬部屋を空けた隙に荷物を盗まれてしまうからだ。通路にはいつも人がたむろしている。泥棒は間違いなくこのなかにいるのに、どの人を見ても怪しい素振りはなく、ごくフツーの旅人だ。映画やドラマの不審者は目つきが悪かったり挙動不審だったりして、主人公と目が合ったら慌ててそらしたりするのに、現実にはどこから見てもフツーのおっさんたち。人を見たら泥棒と思えという言葉は、今の私のためにあるんだなあ。私に有効活用できるかなあ……。
食堂車が開く時間になったので、四人で連れ立って出かけた。ドゥオドゥオに頼んで10ドルをルーブルに交換してもらったので、食堂車での支払いもヘイバッチコイだ。
私たちの初オーダーはピラフ、ステーキ、ビーツのサラダ、紅茶だった。合計683ルーブルなり。我らのバイブル『地球の歩き方』には一人2~3ルーブルで十分食事ができると書いてあったところを見ると、やはりロシアのインフレは強烈である。お味はというと、肉は少し硬かったが、山盛りのフライドポテトと赤キャベツの酢漬けのようなものが添えてありボリューム満点、ビーツのサラダはいろどり鮮やか味も爽やか。ピラフに至っては、まさかの米料理に心で泣いた。一つ一つを、心底堪能した。うまかった。
チョコレート付きの紅茶を飲んでひとしきりおしゃべりした私たちは、食堂車をあとにした。だが、なんだか様子が変だ。何がどうとは言えないが、ある車両に差し掛かったところで、いつもと雰囲気が違うと思った。ちょっと緊迫した空気がただよっていた。すると、脇腹を押さえた男が私の顔を見るなり、よく分からない言葉で話しかけてきた。
(つづく)