なぜ(何のために)戦うのか――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』について

 昨日今日と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の3作品を観ておりました。恥を忍んで言うと、私はこれまでエヴァンゲリオンという作品には全く触れたことがありません。ごく断片的に耳にしていた情報を抜きにすれば、これが紛うことなきエヴァとのファーストコンタクトでした。当然、95年放送のTVシリーズや旧劇場版は未見です。その状態で新劇場版についてのみ言及するのは本来であればよくないことなのかもしれず、また新旧作品の相違点を取り上げて話すことができないのは大きな制約であるとは思いますが、とりあえず新劇場版に限っての現時点での私の感想ということで何とか書いておきたいと思います。


 言うまでもなく、エヴァンゲリオンという作品は1995年放送のTVシリーズがその始まりであり、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』はゼロ年代に入ってからそれを作り直すために始まった試みである。エヴァが90年代を象徴するコンテンツのように(結果的に)みなされてしまったことについて、監督の庵野秀明にとってはおそらくやや不本意なところもあったのではないか。当初、新劇場版がTVシリーズからどの程度異なる路線を走ろうとしていたのかは定かでないが、少なくとも2007年公開の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』においては、若干の差異はあれど概ねTVシリーズの再演という空気をまだ色濃く残している。それでも一本の映画として再構成するにあたって作品の核となる部分はやはり強調されねばならず、それがここでは「なぜ(何のために)シンジはエヴァに乗って戦うのか」という問いに収斂されているように私には思える。

 碇シンジが自らの意思で積極的に「エヴァに乗って戦う理由」を見出すシーンは、少なくともこの『序』の段階では見当たらないように思うし、『序』でいったん留保されたこの問いに再び決着をつけるまでの物語がつぎの『破』であるとも思う。『序』において提示された戦う動機付けは、本作のクライマックスにあたるヤシマ作戦発動前、再びエヴァに乗ることに逡巡するシンジに対して葛城ミサトが投げかけた以下の台詞が担う部分が大きいのではないか。

「理由はないわ、ただ運命があなただったってだけ。ただし、シンジ君一人が、命を賭けて戦っているわけじゃない。みんな一緒よ」

 いつも「安全な地下本部」にいてエヴァパイロットに「命令」を出すだけのミサトたちを「ズルい」と言うシンジに対し、自分たちも使徒と刺し違える覚悟で戦っている、だからそんな私たちと「一緒に」戦ってほしいと言うミサト。そこでシンジは何とか首を縦に振る。ここでは、最前線で戦うエヴァパイロットの背後には無数のNERV職員がおり、パイロットと同様に命を賭して戦う彼らと「一緒に」(あるいは彼らの期待に応えるために)戦うという、やや公的で少し漠然とした理由が想定されている。ヤシマ作戦も同様で、その描写の大半は多数の職員たちの間で難解な専門用語が縦横無尽に飛び交うシークエンスに費やされている。パイロットの背後にいる無数の大人たちを存在感をもって描くヤシマ作戦の音響演出は凄まじく、このくだりそのものが物語のクライマックスとして素晴らしく機能していると思う。しかし、その一方で、ほとんど無数と言っていい人間たちの協力が描かれながらも、やはり最後に陽電子砲のトリガーを引かねばならない、つまり最も危険な最前線で戦わなければならないのは他でもない14歳のエヴァパイロットなのだ。なぜ大人ではなく14歳の子どもが、という問いはやはり依然として残り続けている。それに対する応答としては、この時点ではミサトの「理由はないわ、ただ運命があなただったってだけ」という言葉しかない。「なぜ(何のために)戦うのか」という問いは決着をみないまま、つぎの『破』へと持ち越されることになる。

 最後に、この「なぜ(何のために)戦うのか」というシリーズ全体を貫くと思われる問いに関連して、一つだけ言及しておきたい。それは、第6使徒・ラミエルが放ったビームの直撃を受けて意識を失ったシンジが、自身の内面世界である電車のなかで自問自答を行うくだりでこぼした以下の台詞である。

「嫌なんだよ、エヴァに乗るのが。うまく行って当たり前、だから誰も褒めてくれない。失敗したらみんなに嫌われる。ひどけりゃ死ぬだけ。何で僕はここにいるんだ」

 「エヴァに乗る」の部分を「エヴァ(というアニメ)を作る」に置き換えると、これはそのまま監督・庵野秀明の心境であると考えることもできる。エヴァというアニメが作られてきた過程そのものが、庵野秀明という一人の人間の心理的なリハビリテーションの過程であるように。そしてそれは、エヴァに乗ったりアニメを作ったりといった特殊な行為だけでなく、たとえば「学校に行く」とか「仕事をする」などといったような、我々が日常的に経験する普遍的な行為に対しても言えることだ。その意味で、「なぜ(何のために)エヴァに乗るのか」という問いは、「なぜ(何のために)私たちは生きるのか」というもっと身近な問いへと反転する形で、エヴァンゲリオンというアニメを観る私たち自身に突きつけられてもいるのである。


『破』と『Q』の感想はこちらです。


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