「新たなるエヴァ」へ――『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』について

 『序』と『破』の感想はこちらです。


 この映画について何事かを語ることは難しい、非常に難しいと思う。初見では最初何が起こっているのか全くわからずただただ困惑するばかりだったし、全貌が見えたいまとなっても正直まだよくわからない部分が多い。ただこの「よくわからない」という点が、この映画が提示した新しさであり、それは言うなれば、今までのエヴァンゲリオンとは全く異なる「新たなるエヴァ」の方向へ舵が切られたということではないかと思う。

 『序』の感想でも少し触れたが、そもそも『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』という企画そのものが、90年代に一世を風靡したエヴァンゲリオンというアニメを現代に作り直すこと、その意味と向き合うことをスタッフたちに突きつけたわけである。『破』はその意味で、これまでのファンが求めてきた90年代を代表するコンテンツとしてのエヴァ像に正面から乗っかった、だからこそあのラストのカタルシスは生まれたのだと思う。しかし、『Q』は見事にそれを裏切る映画として作られている。『破』のラストで碇シンジは「自分自身の願いのために」行動し、自分が(そして世界が)どうなろうと綾波だけは絶対に助けるというたいへんヒロイックな決断をしてヒロインに手を伸ばした。そしてその結果、「ニアサードインパクト」なる災害が起き、ほとんど文字通り「世界が終わって」しまったことが、14年後を描いた『Q』において明らかにされる。自らの決断に酔いしれたシンジに、あるいは『破』の結末に歓喜し熱狂したファンに、「世界の終わり」というどうしようもない現実を突きつけ、その横っ面に強烈な一撃を与えるために『Q』は作られている。

 このような『破』から『Q』に至る流れが、新劇場版の構想当初からの既定路線だったのかというとおそらくそうではないだろう。私の勝手な考えでは、2009年公開の『破』と2012年公開の『Q』、この2本の映画のあいだに横たわる2011年の大震災がやはり大きく影を落としているのではないかと思う。この映画のテーマソングである宇多田ヒカルの「桜流し」にしてもそうだ。『Q』について言及するとき、やはり『破』が「震災前」であり、この映画が「震災後」の作品であるという事実を抜きにしては語れないように私には思える。

 『序』において提起され、『破』へと受け継がれた「なぜ(何のために)戦うのか」という問いは『Q』でもまだ存在感を失ってはいないと感じた。『序』での答えは、「命がけで戦う皆のため、ともに戦う」というものだった。一方、それでは不十分として再度その問いと向き合った『破』においてシンジが自分自身の行動で示してみせた答えは「綾波レイというかけがえのない一人の人間のため、他の誰でもない自分自身が戦う」というものであり、多くの観客もそれを支持した。しかし『Q』ではその決断がもたらした悲劇的な結末がシンジの目の前に立ちふさがり、再び、世界を変えるためというパーソナルな理由で渚カヲルとともにエヴァンゲリオン13号機に搭乗したシンジは、やはりそれが残酷な結末しか生まないという現実に直面し茫然自失する。『破』が圧倒的なカタルシスをともなって示した「自分自身の願いのために戦う」という答えは『Q』の劇中において二度も否定されたことになり、しかも依然として「なぜ(何のために)戦うのか」という問いは明確な答えが示されないまま残っている。となれば、2021年1月公開の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では再びその問いと向き合うことになるのだろう。

 最後に、私は新劇場版3作のなかでは『Q』がいちばん好きです。シンジ君とカヲル君のピアノの連弾のくだりとか、何よりもあの赤く染まった大地を3人が歩いて遠ざかっていくラストショットとそこからの「桜流し」への流れが美しすぎました。『シン・エヴァンゲリオン劇場版』がどのような結末を迎えるのかはわかりませんが、「運命を仕組まれた子どもたち」に少なからぬ希望が訪れることを願っています。

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