続・究極のバックアップとは
一昨日、アーサー・ビナードさんがラジオでしていた『究極のバックアップ』の話を書いたのだけれど、実はアーサー・ビナードさんが言う"究極"のバックアップは「石に彫る」だったのだ。笑
次点は、口で伝える、だと。
数十年後に再生できるか不明のデータが、歴史的にバックアップの役割を果たせそうにないのはわかるが、紙だっていつか燃えてしまうかもしれない。でも石ならこの自然界において、恐らく最も形として残る確率が高いだろう。現に今の時代にもたくさん残っている。
石に彫るとなると、大変だから言葉も厳選するしね、と。
いかに形を残すかということも大事だけれど、最も言いたいことはなんなのかということも重要だ。これは、「口で伝える」ということにも共通するけれど、べつに今この世に存在する全てのものが未来に残っている必要もないのだ。
アーサー・ビナードさんは、マサイ語を話す友人について触れていた。マサイ語には文字がないので、彼は会議等でメモをとったりしないのだけれど、だからこそ彼の記憶力と表現力がものすごいという趣旨の話をしていた。
この話を聞いて、少し前にちきりんさんがこんなツイートをしていたのを思い出した。
続けてちきりんさんは、この時代に板書のとおりにノートをとることや、会議の内容そのままの議事録をとることの無駄についてもツイートしていた。確かに、板書なんて撮影もできるし、会議だって録音も録画もできる。データで補えるものを、同じ時間を使ってそのまま人間の手でコピーする必要はない。
まず、時間が有限であることを意識すること。そして、今起きていることに対して、自分は何を考えるのか、限られた時間の中で一番伝えたいと思うことはなんなのかを考えて、見たり読んだり書いたりするべきだよなと改めて思う。
今の時代に何でも手元で録音や録画ができること、またネット上において文字を際限なく書き全てを保存できることは確かに便利だ。便利すぎる。
でも、とりあえず残しておいたものは自分でも見返したりしないし、「とりあえず残す」ということに労力を割いているあいだに、そこから自分が何を思うのかを意識したい。
なんでもかんでもただそのまま保存しておくバックアップはいらないのかもしれない。その中で何が一番大事なのかをつきつめた最小限の形なら、自分の心にも、誰かの心にも残りやすいだろう。それは石に彫れるくらいの量でいいのかもしれない。
いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。