『万引き家族』から考えた、この時代を生きる力
『万引き家族』をレイトショーで観てきた。
前情報を一切入れないで観てみようと思って、予告編も見ずにいたけれど、何の情報にも引っ張られずに、純粋に心が反応していった気がして、やっぱりよかったなあと思った。
愛情とはなんだろうか。
家族だからこそ生まれる愛しさ、家族だからこそ生まれる憎しみ。
「家族」という言葉を「他人」に置き換えても、全く同じ感情は、この世界に無数に存在するんだろう。
万引きが家族間の中に当たり前に存在すること以外は、こんな家族も、きっといるんだろうなあと思いながら話の展開を追っていくと、あれ、この家族って実際どんな形態と言うんだろうと疑問が生まれてきて、だんだん真相が明らかになっていく。
私はこの映画を見ながら、坂爪圭吾さんが言う「ごちゃまぜの家」ってこんな場所なんじゃないかなあと思った。(そこに犯罪はないけど、他人とのつながり方という意味で。)
今の社会に少しずつ生まれてきているような、新しい形態の家族。
でもなんだか、ここに溢れる愛情を見ていると、これ以上家族という言葉がしっくりくるものがないと言える程に「家族」だなあと心から思った。
そこには、それぞれの人間のズルさも介在してくる。
心からの愛情と、人間が持つズルさは、矛盾することなく同時に存在し得るものだとも、改めて強く思った。
人は、近づけば近づくほどに、愛すれば愛するほどに、相手の残念さにも触れていくことになる。
どんなに素晴らしいと思う人と一緒にいても。
揺れ動くそれぞれの人物を観ながら、信じたい愛情と、相手の残念さに対して自分が抱える疑念や絶望をはかりにかけながら、どちらも嘘ではないことを自分なりに受け止めるすべを考えながら、人は成長していくのではないかと思った。
どちらかを嘘だと断定してもいいのだ。
自分が信じたいことだけを信じてもいいのだ。
その時点でそうとらえた事実を、1年後に、5年後に、10年後に振り返ったときに改めて考えることがまた、自分という人間を成長させてくれるんじゃないかということを考えた。
映画では、そういう余白と余韻を残していたと思う。
帰りの車の中で、是枝裕和さんのインタビューを聞いていた。
安藤サクラさんが最後に泣いているシーンのことについてやっぱり触れていた。
あんな泣きはほんとうに見たことがない。みんな言っていた。
なかなか特殊な撮影方法で出来上がったシーンだそうで、なるほどなあと深くうなずいた。
社会 対 万引き家族のわかりやすい構図であり、これがこのまま、今の社会で弱い立場の人と、自己責任主義者の構図みたいなものにも見えると私は思った。
そこで、役というよりは安藤サクラさん自身が感じたそのままの気持ちみたいなものが伝わってきた。(是枝さんの映画の中でよく感じる。)
どうせ伝わらないという気持ちと、その悔しさをさとられまいとする気持ちと、自分でも感じる幾ばくかの矛盾をかき消すような悲痛さと、でも根底にある揺るがない自信みたいなものが、強く現れていた。
誰に伝わらなくても、自分の中で幸せだったと思える強さに、愛する人の弱さも受け止める強さに、心から憧れた。
そんな時、私もこんなふうに泣きたいと思った。
自分がどんな境遇でも、人を信じて愛情を注いでいくことで、大切にしたい人とのつながりを、築いていくことができるんだと思う。
でもその過程で、「思っていたのと違う」という気持ちもまた、かならず付随してくるものなんだと思う。
それでも自分が何を幸せと思えるのか、それさえ揺らがなければ、どんな環境になったとしても「楽しかった」と言えるのだろう。
そしてべつに、今すぐそんなことを言えなくたっていいのだ。
1年後か5年後か10年後か、また、永久に分からなくても、分かりたいとは思い続けていたい。
犯罪や人間の弱さの裏にある、人の愛情や深い想いなんて認められない
まさか、そんなものが存在するなんて、てんでありえない
そう思われることは当然だけれど、あなたが理解できない幸せを私は感じている、そこには拭えない疑念はゼロではないけれど、向き合う自分をたぶん持っている
これは、人と人との戦いであり、社会と個人との戦いであり、自分自身との戦いである。
でも戦法は攻撃することじゃなくて、ただ、思うとおりに生きること
あるがままを受け止めること
いつか受け止められるようになること
そう生きようとする静かな強さが、今の時代を生き抜くすべなのではないかということを深く考えた。