感想というか連想_001(コロナ禍の始まり)
私が好きな、デザイナーの山下陽光さんと写真家の下道基行さんが週一でやっている「山下道ラジオ」を聞き直しながら感想を書こうと、一ヶ月前に思い立ったのだけれど、なかなか進まなかった理由。
私は仕事中(花の苗にまつわるあれこれ)に基本何かしらの音源を聞いていて、日々聞くものを探している。そこで膨大な量の、山下道ラジオの過去音源を聞き直すことを思いついたのはすごく冴えてるなーという気がした。
でも聞き流しているとメモが取れないんだ。というわけで夜、家の中にいる時間に1本ずつ聞いて1本ずつ感想というかそこから連想したことを書こうと思った。
というわけで、今日は洗濯物を干しながら聞き返した第一回について。(これはもう5回以上聴いているのだけれど。)
このラジオが始まったのは2020年3月11日。4年と8ヶ月前である。
そう、コロナ禍が理由で始まったのだ確か。
今「コロナ 始まり」で検索してみると
と出てきた。
この時はまだ、あそこまでの事態になるとは思っていなかったと思う。(思うと同時に記憶がすでに結構おぼろげなことに驚く。)
日本人として自分ごとだと、自分の生活の延長線上に起こっている出来事だとしっかり認識したのは「ダイヤモンド・プリンセス号」の事件だったかと思う。
一つの船の中で13人も亡くなったというのは、今考えればとんでもなく大きな事件だったと思うのだけれど、その後この事件ってあまり報道されていない気がする。
今YouTubeを見てみると、当時のニュースの動画は出てくるけれど、個人的にこの事件を検証している動画などが全く見つからず(意外)、私自身も忘れかけていたけれど、テキストベースの記事などは幾つか見つかった。
当時はテレビを見ながら、どうにかならないものかと思っていたけれど、これは大変な危機の幕開けで、その後全国各地でこの年にコロナに感染した人の扱いって本当に酷いものだったのだ、そういえば。
あれからもうすぐ5年になる。5年のうち3年、特に最初の1~2年は自分自身も感染の恐怖に怯えたり、誹謗中傷に心を痛めたり、生活スタイルが変わることでストレスになることもたくさんあったけれど、本当に辛かった閉塞感のようなものは、もう結構忘れてしまっているかも。人というものは本当に忘れてしまう生き物だなあと思う。
そんな今、4年以上前に録音された音源を聞き返すことで、ああ、思い出して良かったと思ったことがたくさんあった。
今は週一回の山下道ラジオだけれど、この時は毎日1回放送していたのだ。(放送というのは、正確には、2人のおしゃべりを録音したものをそのファンが集うLINEのオープンチャットにアップするという方法なのだけれど。)
当時は確かに自分も、実に週6~7回くらい、ZoomやLINEで2人もしくは複数人で話していたし、Zoomを使ったオンラインイベントもたくさんあった。そのためにZoomの使い方を覚えたもんなあと思う。
山下さんは今都心に住んでいて、下道さんは今瀬戸内海の直島(区分としては香川県の島になる)に住んでいるが、2020年当時、山下さんは福岡県、下道さんは愛知県に住んでいた。
今となってはもう山下さんは完全に東京の人だし、下道さんは完全に直島の人という印象なのだけれど、コロナ禍で引越しをするというのはそれなりに大変なこともあっただろうなと思う。
山下さんの娘すんちゃんは当時保育園の年長さん。1年しか通わなかった保育園だったけれど、その実は隠れラディカルな福岡市の保育園では、すんちゃんが着ていた丸T(山下さんが手掛ける自身のブランド「途中でやめる」の定番服)を園長先生が気に入って、園の子どもの体操服にしたいと発注されたそうな。そしてみんなが丸Tを着ているという保育園。
そんなすんちゃんも今は小5。自分もそのくらい年をとっているのだなあと思う。
この頃、下道さんが直島につくりたいと言っていたもの。自分はその資料館を2年前に観に行って、その時実際下道さんにいろいろお話を伺ったのだけれど、あれだけ作り込まれたものが、そうかこの時はまだ下道さん、直島に住んですらいなかったのかと思うと、とても不思議な気持ちになる。
(この日記は、ぼちぼちつづくと思います。)
ついでに自分の近況を。
実は2週間ほど前にコロナに感染した。初めて!山梨(自宅)→東京→宮古島→東京→山梨(自宅)と旅をしてきた直後だったので、おそらく旅先での感染だったのではないかと思う。多分最終日の東京ではないか。
症状は比較的軽く、とても高価な抗ウイルス薬「ゾコーバ」はよく利いた。コロナが5類となってからは結構気楽なものだなと思う。と言っても親にうつさないように家の中ではとても神経を使ったけれど。これが4年以上前だったらとても大変なことだ。
ちなみにサムネイルの写真は多分2018年、福岡に行った時のもの。