親が生きている間に、親のガラクタやモノは、少しでも断捨離は可能なのか? 世の中の子供世代で悩んでいる人達は多い
今日は。
今日は、親が平均寿命よりも長生きをしており、断捨離やガラクタや、モノを捨てるといった概念もなく、子供世代が、実家の断捨離などで話しあおうとしたりすると、親がキレたり、聞く耳を持たなくて、困っているという記事を見たので、自分の忘備録として、今思っていることを、綴ってみようと思う。
シルバー世代の中では、平均寿命よりも長く生きている人達がいる。
それはそれでいいことなのだが、うちの親のようにコレクションが多い、ガラクタやモノが多い。
モノ屋敷である。
または、コレクションの断捨離という概念もなく、経年劣化をするという概念もない。
よく考えずにひょいひょいと簡単にガラクタやモノを買ってくるので、本人が自分の考えや行動に気づいて変わらない限り、私達子供世代には、どうしようもできない。
母が長生きをすればする程、うちは母のコレクションやら、ガラクタやモノ達が増え続ける。
父や、兄弟は、フェードアウトをしている。
このままでは、もし何年か後に私が実家に戻らないといけないとなったとしても、もし私や家族のガラクタやモノ達を断捨離をしたとしても、正直に言って、完全に価値観などが違う、母との同居は無理だと、私は気がついた。
母のコレクションやら、ガラクタや、モノ達が今の状態では、私は今の実家の環境で住むのには、私は耐えられない。
コレクションという名前の死蔵品や、ガラクタや、モノを断捨離をするという考えさえない人が、長生きをすればする程、その人のガラクタやモノ達は、その人が生きている年数だけ増え続ける。
私は、長生きがいけないとは言ってはいない。
むしろ長生きは、いいことだろう。
でも、ガラクタやモノを捨てる、片付ける、整理をするという習慣や行動、概念などがない人が、長生きをすればする程、その人がこの世からいなくなった時、その途端、ガラクタやモノ達は、ゴミとなる。
その人が生きている限り、ガラクタやモノやゴミ化する候補のモノ達が、その人の家にあり続け、その処分は、子供世代などが苦労や疲弊をしながら、自分でやるか、業者に頼むかなどの方法になる。
長生きをすればする程、ガラクタやモノや、ゴミ候補などが、断捨離や片付けや整理をされないまま、その人が生きている年月、積み上がっていく。
一体、そのツケを払うのは誰なのだろうか?
長く生きた、本人ではないことだけは確かだ。
あの世には、なにも持ってはいけない。
その人のガラクタやモノ達は、途端にゴミとなる。
そのことを理解し、生前整理をしている、シルバー世代や、親達は、世の中には一体どのくらいいるのだろうか?
大方のシルバー世代や親達は、多分自分の子供世代などに、完全に丸投げをする形になるのだろう。
このご時世、子供世代だって、多忙な人達は多い。
自分のリソースを、親といっても、他人であり、まともに話し合えない、折り合いもつけられない、逆ギレをする。
親だって、子供世代だって所詮人で、完璧な人などいない。
だが、私も含め、人はいつかは死ぬ。
そうしたら、私もあの世には、何も持ってはいけない。
自分のガラクタやモノ達も、ゴミとなる。
よく、生きる上で、人に迷惑をかけなければいいとはいうが、ガラクタやゴミを残すということが、最大に誰かしらに、迷惑をかけることになるかもしれない。
今の自分は、自分のガラクタやモノ達以外の、家族や母のガラクタやモノ達をひたすら、自分のリソースを使い、断捨離をしてきた。
解体も、廃棄なども、自力でやった。
今日まで費やした、自分のリソースに対し、ありがとうなどもない。
感謝などもない。
私は、ありがとうも、感謝などもいらない。
ただ私の母には、これ以上、母のコレクションやら、世話できずにどうせ枯らせる鉢植えやら、どうせ今年の春も死蔵品のままの、ガーデニング用品やら、肥料などの、ガラクタやモノ達を、簡単にひょいひょいと買い、簡単には増やさないで欲しいのだ。
母の、私がやって当然だという言動を、私は目の当たりにし、今の自分がただただ、虚しく、悲しいだけだ。
虚無感しかない。
あと、ひたすら疲れた。疲れた。疲れた。
という考えしかない。
また繰り返すが、人が長生きをするのはいいことだろう。
だが、母のような人が長生きをすると、その人がにその生きている間に溜めた、ガラクタやモノ達は、その年月、確実に溜まる。
本人が変わらない限り、それはずっと続く。
それらと、どう向き合い、関わっていくのか?
これらの課題は、この世の中の皆が、何かの形で関わる事がずっと続くと思う。