「カンガルージャーキー」ep.2
浪人時代を乗り越えてやっとの思いで入学した大学は、ドラマの舞台になるほど厳かな佇まいだった。東京にありながらも伝統的な雰囲気を醸し出すその校舎は、高校生の頃テレビを通して勝手に想像していたキャンパスライフを演出するには最高の舞台だと感じた。
入学式二週間前、長野の実家から上京した部屋には、少しずつ家電が届き始めた。実家から持ち込んだ慣れたベッド以外、部屋には自分以外にも「新顔」と主張するピカピカな家電が揃っていた。それらは人でもないのに、何故か幾何かの緊張感をもたらしていて、入学式の日になっても、まだ親しみをもたらしてはくれていなかった。
久しぶりに早起きしてスーツに袖を通すと、身体は不安と期待で興奮していたのを覚えている。二十分で着くキャンパスに三十分も早く着くと、そこには同じようにスーツに「着せられている」新入生が既に何人かいた。
学校の敷地に入り、校舎へと誘導する若葉を蓄えた美しい欅並木をゆっくりと通り過ぎると、そこにはまるで拍手で迎えてくれているように、サラサラと桜の花びらが舞っていた。誰からともなく歓迎されている気持ちになり、俺はしばらくそこで花びらの舞踏を眺めた。緊張の面持ちで式典会場に向かう数人の学生が通る度に、もしかしたら、彼らが今後の人生で掛け替えのない友人になるのかもしれない、そんな事を考えた。ここで出会う人、ここで学ぶことが自分の人生にどう影響するのか考えると、不安よりもワクワクとした期待感が勝ってくる。一枚の花びらが、ふと頬を触れたその感触は、心までくすぐるようで、俺の口角は自然と上がっていた。
式典は思ったよりあっけなく終わり、会場を出ると、出口前には私服姿の上級生が、待っていましたと言わんばかりに列を作りチラシを配っていた。たかだか三十分もしない式典の間にどこから湧いて出たのかと驚いて見渡すその上級生の顔は、田舎から出て来た俺にとっては学生生活を謳歌している、垢抜けた都会人でしかなかった。次々と手の中に入ってくるサークル勧誘のチラシをじっくりと見る隙もなく、気付いたら校舎の門の所まで来ていた。さっきまで新生活の期待感でいっぱいだったはずなのに、その時は上級生の勢いに驚くしかなく、ちょっとした解放感を持って帰路に着いた。
真司と出会ったのは、お決まりの新入生歓迎会という名目で、あるサークルの飲み会に参加した時だ。実際にはフットサルのサークルらしいが、話を聞くと二週間に一回の自由参加の試合と、週二日の強制参加の飲み会があると聞いて、むしろ飲み会サークルと胸を張って主張した方が良いのでは、と呆れた。
そこは無法地帯で、未成年の新入生に酒を飲ませては上級生がいかに酒を飲めるかを自慢しているような、訳の分からない空間でしかなかった。
誰がどれだけ酒が強いだとか、女の子がどの位の割合でいるか、その中で何組のカップルがいるか……。そんなどうでもいい話をしたかと思えば、誰かに酒の一気飲みを強要するその空間は、心底つまらなく感じられるものだった。
俺はトイレに行くふりをして帰ってしまおうと席を立った。その集団から黙って逃れても、誰も気づきはしないと確信したのだ。
居酒屋の靴箱からスニーカーを出して店を出たところで、入り口に設置された灰皿のそばでタバコを吸う後姿と出くわした。その派手な緑のウインドブレーカーには覚えがあり、席は離れていたが同じ飲み会に参加していた新入生の一人だということはすぐに分かった。
人の気配を感じて振り返ったそいつは、俺の顔を見て驚いた表情をし、微かに笑った。なんだよ、と不快に思いながらも何の挨拶もせずに帰ろうとした自分を見られて恥ずかしくなり、咄嗟に声が出なかった。
「帰るの?」
そいつは、にやついた顔のままそう言うと、俺も帰ろ、と呟き、待ってろと言わんばかりに無言のまま手のひらを軽く俺の方に向けた。そのまま下駄箱に向かい、店のサンダルから自分の靴に履き替えると、彼は思惑通りそこで待っていた俺に満足したような表情をした。
「良かった、俺も帰りたくてさ。とりあえずタバコ吸ってきます、って席はずしたとこなんだよね。」
聞いてもいないのに馴れ馴れしくそう話す緑の男は、都会育ちのような気がした。田舎から上京した自分とは違う、人馴れをした類の人間。
「俺、真司。法学部。初めまして。」
さっきまでのイラつく表情はどこに行ったのか、爽やかに笑いながらその男は短く言った。
「細野。細野祐樹。文学部。どうも。」
それが真司との出会いだった。
駅までの帰り道、何でもない事ばかりだったが、不思議とそいつとの会話は弾んだ。今思えば、俺は上京して初めてサシで話した同年代との出会いが嬉しかったのかもしれない。真司はやはり都内の実家に暮らしていて、俺が一人暮らしをしていると言うと、羨ましい、と何度も言った。
俺からしてみれば、東京生まれの東京育ちの方が羨ましいのだが、それは無いものねだりのようで、彼にとって上京はある種のロマンを持ったイベントだと思えるものらしい。
短い道のりを随分とゆっくりと歩き、駅で別れを告げると、真司は俺の連絡先を聞いてきた。その会話はごく自然の流れだったが、俺にとってはその言葉を自然と発してしまう真司を、やはり人馴れしている都会の人間だと少なからず感動し、また嬉しくもあった。