「カンガルージャーキー」ep.5
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「意外だね。タバコ吸わなそうな雰囲気なのに。」
そう声を掛けて来た時の彼の顔を、私は今でも忘れない。大学一年の、十月の中頃だった。その日は雨が降っていたのもあって、冬の始まりを痛感するほど冷え込んでいた。タバコを持つ右手が冷め切っていたのを覚えている。
彼はげっそりとしていた。なのに、口元はニヤついて、目はやけに鋭かった。可笑しな男にナンパされたと、ついつい吹き出した。
「あれ?なんか可笑しい?」
吹き出した私に驚いて、ギラギラしていた目は急に不安そうに変わる。
「ううん、何か変な人にナンパされちゃった、と思って。」
そう口に出したところ、彼は笑顔をつくりながら隣に座った。
「一本ちょうだい?」
「一ミリのメンソールだけど、いい?」
そう言ってタバコとライターを渡すと、なんでもいいんだ、吸えれば、と言いながら彼がそれを受け取る。痩せた顔の輪郭と鋭い目線のコントラストは、咥えたタバコが、まるで違法なモノなのではないかと疑ってしまう程だった。
ありがとう、と律儀にお礼を言いながら火を付けると、大きく煙を吸って、随分気持ち良さそうに息を吐き出した。煙なのか気温のせいなのか、彼の口元からは、妙に白いスモッグが上へと抜ける。
「名前、なんていうの?」
無言のまま何回か煙を吐き出した後、彼は首を傾けて聞いてきた。
「りょうこ。涼しい子で、涼子。」
「涼子ちゃん。君にぴったりな名前だね。すごく合ってる。」
歯の浮くような言葉に、素直にありがとう、と答えるしかなかった。
「俺は、ゆうき。しめすへんの祐に、樹木の樹。俺もぴったりな名前でしょ?」
下から覗きこんできた祐樹は、同意を求める目をしていた。
「そうね。よく分からないけど、あなたの名前と顔は覚えた。」
十分だよ、と言いながら、祐樹は吸い始めたばかりなのに、灰皿にタバコを押し付けた。
遠くを見た祐樹の横顔は、変わらずげっそりと消えてしまいそうで、身体つきは平均的なのに、顔だけを見ると随分痩せているように見えた。
「ねぇ、何か大丈夫?すごく疲れて見えるけど。」
「え、俺?うん、全然。」
少しの間があって、彼はそれを打ち消した。
「全然は嘘。でも身体は元気だよ。」
そういうと、しばらく黙った。身体は、ということは身体でないところで疲れているということなのだろうか。
彼は頭を掻きむしり、まだ微かに煙を上げて燃える吸殻を見つめた。
タバコを差し出すと、祐樹は困ったように笑って、ありがと、とまた言った。
なんだろう、この感じ。初めて会ったのに、彼から目が離せない。
相変わらず遠くを見たまま、彼はぽつりとつぶやいた。
「涼子ちゃんを見て、可愛いなぁ、ってすぐに声かけたけど。何だか落ち着くね、君の隣。」
言っている意味がよく分からず、黙っていた。
「最初は、デートして、できればエッチしたいと思って声を掛けたんだけど。いや、エッチがメインかな。……そんな笑わないでよー、素直でいいでしょ。でも、一言二言話しただけなのに、涼子ちゃんの持ってる空気っていうのかな、それが隣にいて凄く落ち着く。もちろん、許してくるならエッチしたいけど。それよりも、友達になりたい、ってすごく思うよ。」
軽い男とはこういうものか、と思いながらも、何故か私は彼に嫌悪感を持たなかった。
今になっては、幾ばくか素直に感情を言葉にしてしまう性分だからだと分かるが、その時の私にとっては、ここまで素直に気持ちを言葉に出す人間は初めてだった。重ねて、今にも崩れ落ちてしまいそうで、不安定感を丸出しにしている男に。
祐樹は、私と同じ文学部だった。学科が違ったから授業を受ける棟は違ったが、共通の授業がいくつかあったらしく、その日以来、授業や休み時間の喫煙所で私たちは何度か顔を合わせた。
今までお互い気付いてもいなかったが、きっとそれまでも何度かすれ違っていたのかもしれない。幾度と鉢合わせになるうち、私たちは一緒に授業をサボり、バイトがない日は頻繁に飲みに行くようになった。
ほぼ毎日連絡を取り合うようになったが、祐樹は出会った時以来、私に軽い言葉は吐かなかった。後に彼は学部でも有名なくらい軽い男だと言われていたことを知り、私は何人もの友人に心配の声を掛けられた。実際、女の子への扱いも慣れていて、見てくれもイケメンの部類に入った彼に声を掛けられた女の子は、かなりの確率で関係を持っていたらしい。
それでも、私にとって彼は友人でしかなかった。
彼と一緒に過ごす時間が増えて色々な話をすればするほど、私は彼の噂を打ち消すしかなかった。本性は臆病者で、かなり真面目な男だった。皮肉な言い方かもしれないが、彼が軽いと言われるのはただの「役」だという事はすぐに分かった。彼は女の子と話すとき、まるでスイッチが入ったように随分馴れ馴れしく装う。初めはその切り替えがおかしくて、事あるごとに笑っていたら、彼は私の前でそのスイッチの切り替えをしなくなった。
なによりも、祐樹が私のことを女として見ていないというのは明白だった。
なぜなら、彼は恋をしていたからだ。
それに気づいたのは、祐樹と頻繁に連絡を取るようになって三カ月、出会ってから半年もたたない位だった。春休みとゴールデンウィークが終わって、新入生のレッテルが取れてすぐのことだ。
その日はとっておきの所に連れて行く、と前もって言われていた。それまではチェーンの居酒屋にばかり行っていたので、どんな店に連れていかれるのだろうと思っていたのだが、連れていかれたのは、イタリアンでもなくバーでもなく、創作和食のお店だった。学校の最寄り駅から徒歩五分。いつもの通学路で通り過ぎていた、古びたビルの地下にある「親父の台所」という渋い名前のその居酒屋は、世界一美味しい鳥南蛮を出してくれる。
いらっしゃい、そう笑顔で迎えてくれた、丸いシルエットの店主「親父」は、パンパンに贅肉のついた丸い手で、次々に美味しい料理を出してくれた。
店員や常連客とも顔見知りなのか、今日はデートか、と祐樹は色々な人に突っ込まれていた。
まぁね、と軽くあしらう祐樹の顔には、なぜか緊張が見て取れた。
祐樹は、月日が流れるうちに、本当に痩せていった。相変わらず顔はげっそりとしていて、身体が顔に合わせたように痩せて行く。実際一緒に飲みに行っても、彼はほとんどご飯に手をつけず、お酒ばかりを飲んでいた。なぜなのか何度か聞いたのだが、祐樹はいつも答えなかった。悲しそうに笑って、なんでもないよ、と言うだけだ。答えは毎回一緒なので、もう聞かないことにしている。
「今日は、真司も来るから。」
真司くんとは、それまでも何度か顔を合わせたことがあった。祐樹のルームメイトであり、初めて出来た大学の友達、ということも聞いていた。今度うちに来なよ、と幾度も誘われていたが、男二人の家に足を踏み入れるのは如何せん勇気がいたので、いつも断っていた。真司くんは社交的で、喫煙所で祐樹といるのを見かけて初めて会話を交わしたときも、話が滞ることはなかった。祐樹や私と違って真面目に授業を受けているため、授業をサボって三人で話すことは滅多になかったが、真司くんの話をする祐樹はいつも楽しそうだったし、三人で飲もうよ、とずっと話していた。
ビールを二杯空けたところで、バイト帰りの真司くんが店に入ってきた。
「おつかれー。」
そういって二度目の乾杯をする。
「ついに、この店に連れてくる女の子ができたんだな」
真司くんは、嬉しそうに祐樹の肩を叩く。
うるせぇよ、と恥ずかしそうに叩かれた肩を撫でながら、祐樹が答える。
「ここな、俺たちのお気に入りなの。こいつが女の子をここに連れてきたのは初めて。」
と真司くんが教えてくれた。
嬉しいような、照れ臭いような気持ちになって横を見ると、祐樹も同じような気持ちらしい表情をしていた。
「次は、俺だな。」
真司くんは、なぜか気合が入ったように膝を叩いた。
そのまま三人で何でもない話をして、お酒がビールから焼酎、日本酒に変わると、男二人は、酔っ払って机に突っ伏した。
私はといういと、少し気持ちよくなったくらいだった。トイレは近くなるが、これ位では潰れない。
酒に強いからといって、得することは二日酔いが少ないことと、帰り道が心配ないこと位だ。損なことは、女として可愛げがないと思われることと、本気を出すと酒代がかかること。なによりも厄介なのは、「覚えなくていいことまで覚えている」こと。
すっかり酔いつぶれ、閉店の時間だよ、と「親父」に声を掛けられた。すみません、出ます、ととりあえず会計を終わらせ、最後にトイレに席を立った。男二人はまだ寝ている。トイレから戻ってきたら起こそう。
明日バイトをいれなくて良かった、と時計を見ながら席に戻った。針は既に深夜に差し掛かっていた。終電まであと少し。急がなくては。
トイレから戻り、一番奥のテーブル、廊下を曲がったときに、祐樹が起きていることに気づいた。醜態をからかってやろうと声を掛けようとしたところで、私は立ち止まった。
彼は、突っ伏した真司くんの頭を撫でていた。ゆっくりと、何度も頭を撫で、テーブルに置かれた真司くんの左手首を優しくつかんだ。もう口からその決定的な言葉が出てしまうのではないか、と思えてしまう程の表情をすると、すぐに切ない表情に変わって、真司くんから手を離した。そのまま真司くんの頭を撫でていた自分の左手で優しく右手を包み込み、じっとそれを見つめている。ふと、気がゆるんだのか、また机に顔を伏せた。
一部始終をじっと見ていた私に、彼は全く気づいていなかった。
祐樹のあんな表情は、初めて見た。愛おしい、けれど、その後に続く何とも言えないあの表情は、紛れもない、恋するそれだった。
私は踵を返して、またトイレに向かった。今戻ってしまえば、確実に動揺が顔に出てしまう。
トイレのドアを閉めて鏡で自分の顔を見つめながら、今のは何だったのだろう、と振り返る。
どう考えても祐樹が真司くんに恋している、という結論に至ってしまうのは分かっていたが、それを受け入れるには唐突すぎた。偏見を持っているわけない、そう頭では分かっていたし、今までもそう思っていた。けれど、いざ目の前で友人がそうだと分かった時、私には受け入れる態勢ができていなかった。
酔っ払っていなかった自分が憎かった。声を掛けられなった私は、ただの傍観者でしかなかったのだから。