無茶と無理をはきちがえない生き方。
『積極的に"やめる"を選ぶ』
私は、この言葉を肝に銘じて生きている。
いや、生き始めた。
幼少期から
『一度始めたことは簡単にあきらめてはいけない』
『最後までやり抜く事がかっこいい人間だ』
など、、、
スポーツ漬けの毎日を約15年間過ごしてきた私は、スポ根で成り立ち、自分を律する為に『やめない事は正義』としてき生きてきた。
しかし、やめない選択をし続けた結果身体を壊し、心を壊し、入院や通院を繰り返し多くのものを失った。
やめない事。それはいつしか自分への十字架となり、自分を苦しめ、周り(主に家族)を苦しめたと思う。
自分の正義に家族を巻き込むことすらも正しいことだと考え(いや、言い聞かせて)、信じていた。
だけど、20代後半から働く環境、出会う人たち、耳にする言葉が変わってきたことで『もしかして自分の正義は、視点を変えると違う見え方になるのかもしれない』そう思えるようになってきた。
信じていた自分の正義、正解が、誰かにとっては違う見解になる。そんな事は頭では理解していたけど、心がついていけてなかった。というより、結局上辺では"みんな考え方は色々でいいよね!"と言いながらも、本心では『私が正しい』と、自分と違う意見が出てくるとそう思ってしまっていた。
しまっていた。と言うくらいだから、それがあまりよき考えでない事は理解していたと思う。
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【無茶はしても無理はしない】
これは、私が現在肝に銘じている言葉だ。
周りに迷惑をかけまいと無理をして、結果的に身体を壊して迷惑をかける。
身体を壊した時に、『頑張っている自分』に酔いしれるのはもうやめようと思った。
だから、"無理はしない"
だけど、
やりたいことの為には時に"無茶はする"
その為に、
【"やらないこと"を決めて実行する】
そう決めた。
そもそも、
無茶と無理の違いはこうだ。
◉「無理」は可能性がないことを指す。
◉「無茶」は困難だが可能性があることを指す。
すなわち、実現の可能性の違いである。
もっと詳しく言うと、
例えば、「無理」とは物理的・論理的に実現が不可能な状況や行動を指す。
一方で、「無茶」は難しいが、ある程度の努力や工夫で成し遂げられる可能性がある状況や行動を指す。
「無理」は基本的に実現が不可能な場合に使われ、一方で「無茶」は難しいが何とかできる可能性が残されている状況に対して使われることがある。
ということである。
意味を調べて、私は
無理はしない。そう決めた。
何にでもトライしている人はかっこいい。そう思ってたけど、今は自分の身体や心がそう強くない事を思い知ったので、強くする努力をするが、それは効果的か?実現可能な計画か?を自分に問いかけて検証して、ただしい計画を立てることに注力している。
自分の命の時間は限られている。
とは言っても、まだまだこれからも無理したくなっちゃうときはあると思う。
決めたことできないことも、決めたこと変えることも。
だけども、それも全部ひっくるめて『おもろい。』って、自分の選択を面白がれるくらいの心の余裕は持ち合わせたい。