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短編小説 一歩一歩 1261文字

ー自分で歩めなくなったらお前の所へ行く覚悟はできているからなー





そう慈夫は今朝も呪文のように自分に念押しして目覚める。
仏花の水を取り替え、仏壇に線香をあげる。数年前亡くなった妻のものだ。
それらが終わると、慈夫は身支度を始めた。

午前中、慈夫が到着したのは人通りの多い市道だった。
遠くに車通りの激しい通りもある。
慈夫の手元にあるのは安全性の基準を満たしたことを証明する緑のマーク。
それがついた国産で伸縮自在の杖。利き手で連続してアスファルトの上に振り下ろす。
すると身体が自然と前へ前へと推進されていくので
慈夫は夢中で杖を振った。
カンカンカンと軽快な音が街頭に響いた。
姿勢は頭のてっぺんからつられたように真っすぐに。
昔、食事のたび食卓の背もたれに画びょうを刺して厳しく躾けてくれた両親に感謝する。
本来はタイヤ会社であるところから販売されているスニーカーは疲れにくい。メーカー独自の製法でクッション性が抜群なのだ。



「転ぶのだけは、気を付けてくださいよ」




数年前他界した妻に、慈夫が通っている地域センターの職員に、何度もそう言われた。
それは慈夫自身が一番承知していることだった。
一度散歩のときに転倒してしまった知人を知っている。
骨折をしてそのまま入院、退院後は家族の元、寝たきりの生活を送っているようだった。
一度転んだらおわりなところがあるので、十分に気を付けなければならない。
かといって、家でひきこもってテレビやネットばかり見ていると認知症が進行してしまいそうで
慈夫はこうして近所の歩道で足腰を鍛えていた。
市道の樹木のあるところからコンビニのある樹木までを目印に往復して歩いていた。
いまは三月なので慈夫はワイシャツにチャコールグレーのキルティング生地のドテラを羽織っていた。
緊急時用にとポケットにスマートホンも忘れない。

三月の温かい日差しと、まだ少し寒いそよかぜに吹かれながら慈夫はひたすらに歩き、途中コンビニで休憩をとり、一時間半ほどで帰路についた。

ーみんな、みんないってしまった。妻も、親も、友人も。
自分の足で歩けなくなったらやがて終わりがくるー



終わりというのは大げさだろうかと慈夫は思う。
知人のように、人生がまだ続いている者に対しての配慮がまるでない。
だけれども。
慈夫は考えた。
自分の人生を自分の足で歩めなくなった際、どのようなことになるのかを。


慈夫はその日悪夢を見た。いつもの夢だ。
悪夢というにはあまりに美しい夢だった。
なくなった妻が三途の川の向こう側からよんでいる。
わたってしまおうか?
もういいのではないか?
夢の中で何度もそう葛藤してしまうのだ。
あたり一面、白い雲と美しい川とカスミソウで構成された幻想的な光景だった。



ー自分で歩めなくなったらお前の所へ行く覚悟はできているからなー


慈夫はそう念じると早い時間帯に自然と目覚める。
毎度毎朝、変わらず線香をあげる。
身支度を終えた慈夫は玄関の靴べらでウオーキングシューズを深く履き込んだ。
いつものように扉を開け、扉に鍵をかけた。
そして、
一歩一歩踏みしめて大股で小さな町を歩き出した。






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