将来のことは計画が立てられなくても
楽しかった日の翌日はなんだかちょっと憂鬱。さみしい、という気持ちなのだろうか。
さみしい、そう感じていたときっていつ頃、どんなときだったかなぁ、と振り返っていたら、そもそも「辛かった時期っていつだっけ?」と考えてしまった。
人生振り返ると、辛かった時期として思い出すのは中学時代だ。人間関係がうまくいっていなかったあの時は、自己憐憫が過ぎて『死にたい』と思っていたこともある。うん、全然ぴんぴん生きてこられてほんと良かった(笑)
あのときはさみしさとは別の感情に、とても苦しめられていたけど、わたしには例えば3つの世界があって、“家族”、“習い事”、“学校”、そのうちの一つの世界だけが苦痛だった。
14歳のあの頃敵は外にいた。あきらかに外にいた。大嫌いなクラスメイトたちがいた。
でも社会人なって感じるさみしさと、いろんな葛藤は、中学の頃に感じていた苦しみとはどう違うのか。どっちがマシなんだろう?
社会人になって感じてきた色んな葛藤と悩みは、わたしを死にたい気持ちにさせることは一切なかった。
むしろ「幸せになりたい」という渇きから生じる苦しさだった。
一見何不自由ない生活をおくってるように見えるし、誰にも侵されていないのに、見えない不安という悪魔とずっと内面で戦っている。
中学の頃とは違い、いじめにあっているわけではない。
もちろん“苦手な上司、お客さんにげんなり…”ということもあったけど、外部要因は割りきれる程度だ。
それよりも、親切をよそおった無神経な発言と、女友達のナチュラルマウント発言という害。でもそれも結局は捉え方でなんぼでも変えられるものだから、やはり敵は自分の内にいると言える。
さみしいという気持ちや、漠然とした将来への不安や焦りって一体どこからくるんだろう。
たしかアドラーが「人の悩みは全て人間関係に帰着する」と言っていた。あらゆる悩みも他人との比較、評価など、他人がいるから悩むのだ、と。
仮にアドラーの言うことが真理だとして、その核の一枚そとがわの層にある“わたしたちを不安にさせる要因”考えてみた。
・自分で考えることを放棄すること
・考えるだけで行動していないこと
・変化を感じられないこと
・いま起こっていないことばかり考えること
・いま手にしているものに感謝できてないこと
大人になったら、自分の責任で、自分で考えて選択して行動して、自分のことを幸せにしていかないといけない。
子どもの頃とはちがい、自分で生きる世界を選んでいける。
それってすごい自由だ。思い描いていた自由を手に入れたのに、なのに、なんでこんなにせせこましく生きているのか。
自分で考えておらず他人の価値基準に則って選択してしまうから?
なぜか将来のことばかり気にかかってしまう大人の病にかかっているから?
でも将来のことを考えてるからといって、はやく“将来”にいきたいわけじゃない。むしろゆっくりといきたい。
うーん、こう考えると矛盾というか、、嫌いな人のことほど考えてしまう、みたいな?
『いやいや、好きな人のこと考えようよ!』って言いたくなるけど実際人って嫌な人のことの方が注意むいてしまうものかも。不思議すぎる。
きっとこれが外からの危険から身を守る本能のひとつなのだろう。
でも好きな人と何しよっかなぁ、どこ行こうかなぁって考えるほうが楽しいのだから、やっぱりそっちにエネルギーをかけた方がいい。
“将来さん”を考えると不安になるなら、ベタだけど“現在さん”を考えよ、となる。わたし的には、遠い将来を考えるのではなく、目先のちょい先のことくらいまで考えるに止めよう?という考え方にきりかえよう、と思っている。
人は自分のコントロールできないことに対してイライラするし、先が見えないことがストレスに感じる。だから、なるべく計画をたてたいと思う。
“目先のちょっと先の未来”なら、まだ計画がたてられる範囲だと思うのだ。計画をたてる意味があるということだ。
もちろんそれは計画とおりにいくことではない。計画を遂行した結果、望ましいリアクションが返ってくるかどうかは運と縁。
だから自分の考えられる範囲で計画を練る。バックアッププランもあるのが望ましい。
そんな風に考えたら、ちょっとは不安を抱えること減らないかなぁ、と期待している。
書いてるうちに、昨日の爆笑カレー会からのさみしさから、少し立ち直ってきたみたい。将来への思いは一旦置いておいて、目先のちょっと先のこと、考えてみようかな。
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