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瞼の先生
こんばんは~!
今日の中間試験で、
終了時間ギリギリになってうまく回答が送れないことにパニくり、ビデオオンなことも忘れて、鬼の形相でパソコンをにらみつけていたひじきちゃんです。
あと全く関係ないですが、切干大根でサラダ作るのおすすめです。おいしいです。ぜひ調べてみてください~♡
早速本題ですが、「瞼の母」っていう言葉を知っていますか。
私は昨日
「育ち」を振り返る 「生きていていい」、そう思える日はきっとくる 著:渡井さゆり
という本を読んで、初めて知りました。
言葉自体の意味としては、「記憶の中の母の面影」なのですが、
この本では縁のあったおじいちゃんに対して、「瞼のおじいちゃん」という使い方がされていました。
筆者にとってはそのおじいちゃんは
「亡くなってしまったけれど、
自分に対して、その人がぬくもりを与えてくれたり、寄り添ってくれた経験が自分の中に息づき、
何か良いことがあったときは、その人も喜んでくれるはずと思えたり、迷ったことや困ったことがあったときには、その人はこういうはずと考えたり、人生を後押ししてくれたり、羅針盤になってくれる存在」
なのかなと読み取りました。
そして私にとってそのような存在っているかなと考えた時に思ったのが「瞼の先生」でした。
この先生は私が受験生の時にお世話になった先生で、ものすごい人格者というわけではないのですが、いつもぶれない自分の軸があり、私の悩みに対して、「私目線」ではなく「自分目線」で意見を言ってくれる存在でした。
この本を読んで、もう高校を卒業して3年近く経とうとしていますが、いまだに私の瞼には先生がいるよなと感じました。
まだその先生全然生きていらっしゃいますけどね笑
こう考えてみると瞼に先生がいてくれたおかげで支えられてきたことがあるなと感じています。し、その先生の前での自分というのが、私に取っては理想の自分みたいなところがあって、自分に自信がなくなった時そこに帰ることができるというのも、大きいと思います。
皆さんはどうでしょうか。瞼に誰がいますか?
またこの本を読んで、自分の育ちや価値観を見直すきっかけにもなりました。ぜひ秋の読書の1冊として、読んでみてください~
ではまた♡