見出し画像

あの世の"すきま"

「来世で会おう」というせりふを、なにかの映画で耳にしたことがある。

だが、あの世がどんなものかを正確に知る者は、この世にはいない。この世の人間があの世について想像しているのは、せいぜい天国と地獄くらいだ。

生きているあいだにこの世で良い行いをを多く積んだ者は、天国へ行くことができる。反対に、悪い行いをあまりにも多く積んでしまったものは、地獄へ落とされる。それが、この世で知られている、あの世のルールである。

しかし、実際のあの世は、じつはもう少しちがっている。天国にも地獄にも行けなかった者、つまり、この世で良い行いを多く積んだわけでもなく、それでいて、悪い行いが多かったわけでもない者。いつまでも善悪の天秤がゆらゆらと揺れ続け、審判のしびれを切らしてしまった者が行くところがある。それは、あの世では"すきま"と呼ばれている。

夢もスリルもない、つまらぬ印象の"すきま"は、この世で話題にのぼることは少ない。もっとも、面白みがすくないために、あの世の管理者も積極的におおやけにしていないのだ。

今日も"すきま"では、善良でも、極悪でもなかった者がたくさん過ごしている。ここには、天国のように美味しい食事や、色とりどりの花畑や、ふかふかのベッドはない。かといって地獄のように、血の風呂や、針の道や、けものの"ふん"の山があるわけでもない。

"すきま"には、特にこれといったものはない。強いて言うならば、特に味がするわけでも、においがするわけでもない、なんの変哲もない水を飲むための「いこいの場」があるだけ。"すきま"の者たちがやることといえば、そこでただ水を飲むだけである。

何もない場所だから、話題といっても大したものがない。"すきま"の者たちは変わらぬ味の水を飲みながら、互いに「調子は」「ぼちぼちさ」という会話を延々と繰り返すだけである。幸福でも、不幸でもない。それが"すきま"。

何もない世界に可笑しみなどないはずだが、それも度合いが過ぎると、逆に可笑しく思えてくるのが"すきま"の原理である。彼らは今日も味気のない水を片手に、わけもなくへらへらと笑いながら、それなりのあの世ぐらしをたのしんでいる。

・・・

卓上ゲーム「Dixit(ディクシット)」の絵カードをランダムに1枚に引いて、短時間で作品をつくります。

今回のカードもまた難しく。世界観をどうやって作ろうかなと悩みました。カードから楽しそうな雰囲気と、どこか堕落したような雰囲気を感じ、あの世の"すきま"に落ちてしまった人々を想像しました。

前回の作品はこちら。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?