大糸線で50年ぶりの故郷へ ✳︎ 地方都市の新たな魅力に出会う ローカル線とブロンプトンの旅
※ この記事は、以前3回に分けて投稿したものを、一本にまとめ再構成したものです。
ある日曜の午後のこと。近くのスーパーの店頭に「雷鳥の里」が並んでいました。
製造元は、長野県大町市の、有限会社田中屋。
思わず買い物かごに入れました。
帰宅して夕食の後、箱を開け、一つ手にとってかじりました。爽やかな甘みのクリームの味が広がります。
ー 生まれ故郷の味…
心の奥底に何か温かなものが流れ、自然と笑みが溢れました。
大町は、わたしがこの世に生を受けた土地です。しかし父の転勤により生後5ヶ月で引っ越してしまいました。その後、小学校の低学年の時に「黒部ダムが見たい」と親にせがんで連れて行ってもらったことがあります。
生まれ故郷との関わりは、これまでの人生において、それが全てでした。
その町が少し気になり始めたのは、JR大糸線の一部廃線がマスコミを賑わせ始めたことがあります。大糸線は、松本から安曇野、大町、白馬などを経由して糸魚川に至る全長約135Kmの路線。このうち巨額の赤字が問題になっているのは北部の南小谷~糸魚川間で、大町を含む南側の区間の存廃は俎上に上がっているわけではありません。といっても、元乗り鉄としては気になります。
もう50年も足を運んだことのない生まれ故郷へ行ってみたい、という思いが強くなっていました。
◆ 出発は糸魚川から
11月25日 金曜日(2022年)。
京都から特急サンダーバードと北陸新幹線を乗り継いで、糸魚川に着いたのは22時41分のことでした。
出発直前に職場で面倒なことが起き、むしゃくしゃして血圧が上がったのか、缶ビール一本で気持ち悪い酔い方をし、肩凝りと鈍い偏頭痛に悩まされて、持ってきた文庫本を読む気にもなれない三時間半の旅でした。
駅前広場に出ると、澄んだ冷たい大気が熱った顔に心地良い。
駅から今宵の宿までは一キロ程。ブロンプトンで走っていきたいところなれど、ビールを呑んでしまったので、輪行バッグから出してハンドルを立て、畳んだまま押してゆきました。金曜夜のためか、寂れた市街地にもスーツ姿のサラリーマンのグループが、ちらほらと目立ちます。
ホテルの大浴場で肩から首筋にかけての凝りをほぐし、頭痛薬を飲んで、カタールワールドカップの中継を少し見てから眠りにつきました。
翌朝。レストランへ降りて行きましたが、何だか寝不足感で胃がムカムカし、食欲がありません。昨日の職場でのトラブルで、ストレスが溜まっているのでしょうか。それでも、一日のライドに備えて何か腹に入れねばと、色々なものを少しずつ皿にとって席につきました。
8時過ぎにホテルを出て、ブロンプトンを組み立て、大糸線に乗る前に少し海沿いを走りました。国道8号は車が多く、必ずしも快適に走れる道ではありませんでしたが、朝日に輝く日本海は少し心を浮き立たせてくれました。
糸魚川の市街地は、2016年に大火により広範囲が焼き尽くされました。その数年前に自転車旅で来たことがあるのですが、その時に歩いた雁木のある雪国らしい通りも灰燼に期してしまったようです。
海岸線と市街地をしばらく走って、駅へ。
まだ高校生の頃ですから40年ほども前のことですが、松本から大糸線に乗り通してきて、この駅で北陸本線の特急「白鳥」に乗り換えたことがありました。本線らしい堂々とした駅舎の改札口越しに、駅前大通りの突き当たりに海が見えたこととか、広い構内に煉瓦造りの立派な機関庫があったことなど、ここへ来ると思い出されます。北陸新幹線の開通と共にそれらは姿を消し、今では全国どこにでもあるような橋上駅になっていました。
その糸魚川駅の一角から、8時54分発南小谷行のディーゼル単行に乗ります。
思ったより乗客は多い。と言っても10人ほど。高齢化率は相当なもので、見渡したところ、57歳のわたしが若い方から2~3番目。
◆ 大糸線の旅
ディーゼルカーは田園地帯を走っていきます。根知の先は谷が狭まりました。対岸には何条かの滝がかかっています。北国の紅葉はそろそろ終わりかけ。
姫川第六発電所、というのがあり、続いて小さなダムと小さな発電所が連続して現れます。
かつて大糸北線の終着駅だった小滝には、昔の駅舎が残っていました。もっともサッシは入れ替えられ、壁はサイディングボードに張り替えられています。
駅の対岸に石切場があり、その傍らになかなか見応えがある階段状の滝が流れ落ちていました。
小滝の先、中土までの区間は、厳しい地勢と気象条件に阻まれ、大糸線の中で最後に開通した区間です。
谷はますます険阻になり、ディーゼルカーは徐行しながら谷を詰めていきます。
対岸の道路は、ずっとスノーシェイドに覆われ、そのコンクリートの屋根は枯れ木に埋め尽くされています。
人家は見当たらず、ただ姫川の濁った急流と紅葉に埋め尽くされた急斜面が続いていました。
寂れた温泉街が川沿いに現れ、やがて平岩に到着。かつてはそれなりに賑わっていたのでしょう。南からの強い風に煽られながら、中年の夫婦が乗ってきました。側線には除雪車が停まっています。
平岩を出発して間もなく、真新しい高級マンションのような建物が前方にみえました。地方でこういう建造物を見ると、特養ホームかな、と思ってしまいます。しかし調べてみると、なかなか評価の高い高級温泉ホテルでした。
再び長いトンネルを抜けると谷が広がりました。西の空には雪山が姿を現しました。朝日に眩しく輝いています。
北小谷から、初めて制服姿の女学生が乗ってきました。
この列車の終点である南小谷に近づくにつれ、ようやく人家が増えてきました。並行する道路にはローソンの看板も見えます。線路側には動画を撮る二人連れの鉄道ファンの姿。
この列車の終着駅・南小谷は海抜513メートル。
空気は冷え込み、山は新雪を纏い、初冬の雰囲気があります。
今日は駅前で何かイベントがあるようで、テントが用意されていました。
ここからは電化区間となります。
◆ 白馬ポタリングとジャンプ台
10時22分、白馬駅の屋根付きの長いホームに、二両編成の電車はゆっくりと滑り込みました。急に大都市の近郊駅に着いたよう。観光客と地元民が2~30人ほどもホームで待っていました。
駅舎を出ると、正面には五竜岳。荒々しい山肌に新雪を纏い、青空を背景に凛々しく佇んでいます。
ブロンプトンを輪行バッグから出して組み立て、山の方へ向かって走り出しました。
登山シーズンとスキーシーズンの狭間の白馬は静か。
ロードサイドにはアウトドアメーカーの店舗が立ち並んでいます。
八方尾根スキー場の方へ登っていきます。やはり昨夜の眠りが浅かったせいか、少し身体が重く、大したことないクライムがしんどい。無理せず軽いギアで登ります。
まだ行ったことのないジャンプ台に登ることにしました。往復460円のリフト代を払い、記念館になっているタワーへ。
このタワーは、最上階までエレベーターで登り、階段で降りてくるのが定石らしく、そうすることを勧める掲示も出ているのですが、無視して一階から階段で登ってみました。
大失敗。2階までがきつかったこと。
ともかくも、ラージヒルの台のトップに立ちました。
長野オリンピックからもう25年。今も語り継がれるジャンプ団体金メダルの舞台。ここから、スタンドを埋め尽くす人と旗の波の中へ飛び出していく選手たちの気持ちを想像してみます。とてつもないプレッシャーを払い除けてスロープを滑り出すのか。それとも、何物にも変え難い高揚感に支配されるものなのでしょうか。
スロープには、着雪用のネットが既に張り巡らされていました。
見下ろす谷間には、樹林と畑、ペンション群。小春日の陽光を気持ちよさそうに浴びていました。
◆ 仁科三湖をめぐる
白馬のジャンプ台から、エレベーターとリフトで麓まで降りました。この先はブロンプトンで、旧道を拾いながら、南へ向かって走ります。
向かい風がかなり厳しい。私のブロンプトンはM6R、わかりやすく言うと6段変速ですが、平地でもそのうち下から3番目でないと踏めません。
まあ、急ぐ道ではありません。大町まではせいぜい25キロ。本当に厳しくなったら輪行してしまえばよいのだし、努めて気楽にペダルを回しました。
今日は、ホテルの朝食バイキングを無理して食べ、その上糸魚川駅で買ったクリームパンなども車中で頬張ったせいか、ジャンプ台へ登ったりした割には空腹感がありません。
それても、せっかくなので新蕎麦を味わおうと、道端に幟の出ている蕎麦屋の前で足を止めました。あまり愛想のない店でしたが、蕎麦は香り高く、少し甘い蕎麦つゆもうまかった。
その先は国道を逸れ、風を遮るもののない田園の中を走りました。
姫川の源流が近くなりました。概ね平坦だった道は上りになります。上りは小径車の泣きどころ。しかも向かい風。それに、やはり体調が万全でないのか、或いは筋力が落ちたのか、いつもよりギアを一段軽くしないとしんどい。
分水嶺を上り切り、国道を横切りました。
その先にトンネルがあって、それを抜けると、仁科三湖の中で最北端かつ最大の青木湖が蒼い水を湛えていました。
仁科三湖は、北アルプスを映す鏡。湖畔にはカヌーなどのショップもありますが、シーズンオフ故、店仕舞いしています。人気のない静かな水面に強風でさざなみが立ち、その向こうに聳えるのは唐松岳でしょうか、新雪に輝いています。高原の湖は清涼感に満ちていました。
湖の南端にある集落の先、隣接する中綱湖へまっすく向かうのももったいなくて、青木湖の西岸を北上。こちら側は、陽当たりが悪く、ところどころ湿った落ち葉の上を走る山の端の道でした。
再び東岸を下って、湖というより大き目の池のようなサイズの中綱湖を走り抜け、簗場駅の先で国道に合流。
全国旅行支援の影響もあるのでしょうか、背後から次々と自動車に抜かれます。
ペースを上げようにも相変わらずの向かい風に加え、今ひとつ身体が動かず。2週間前にはビワイチやったり、それなりに走っているつもりなのだが、全然強度が足りてないのでしょうか。
それでも、やがて前方に木崎湖の湖面が輝いているのが見えました。仁科三湖の中で最南端にあり、少し谷も開けているためか、明るい雰囲気の湖です。ようやく風も治まってきました。
路傍では、たわわに柿が実っています。
海ノ口駅で足を止めました。化粧直しされた木造の駅舎が気になったのです。引き戸の閉ざされた待合室を覗き込んでみると、無人の改札の向こうには、刈り入れを終えた水田と湖水が見えました。
標高800メートルの高原故、既に紅葉の最盛期は終わり、初冬の気配が立ち込めています。しかし日差しは春のようで、生まれた町へ帰ってきたおっさんを暖かく包んでくれています。
木崎湖も一周してみました。南の端には湖岸に仁科神社があり、道は小高い境内を迂回しています。そこから西岸を北上していくと、アウトドア好きな家族が移住してきたと思われる一戸建てが湖岸に並んでいました。傾斜地なので、どれも2階に玄関を設けています。ここなら、いつでも湖にシーカヤックで漕ぎ出したりできるし、或いは小さなヨットなんかあったら更によいと思います。もっとも、街で呑んでから、ここまで帰ってくるのは大変だけど。
木崎湖を一周して湖尻を後にすると、大町の市街地はもうすぐそこです。
◆ 若一王子神社
大町そのものは必ずしも観光都市ではないのですが、ネットでいくつかの見どころは調べてきました。そのうちの一つ、若一王子神社が市街地の北郊にあるので、立ち寄ることにしました。
境内に立つ三重塔を目にするなり、既視感を覚えました。
ここには、来たことがあるぞ。
小学生の頃一度だけ、黒部ダムを見たいと親にせがんで、大町に来たことがあります。黒部ダムへ行った翌日は、昔住んでいた住宅、山岳博物館、仁科三湖などを巡りました。
その時、わたしの初参りに来たのがここだよ、と連れてこられた神社の記憶が、50年の年月を超えて、不思議なことに蘇ったのです。
手水で手と口を清め、重要文化財の本殿へお参り。この社の神様に護られて、57年間、健康に生きてこられたのかな、と思うと感慨深い。お賽銭も少し多めに入れてしまいました。
社務所に行き、御朱印をお願いしました。ロマンスグレーの穏やかな初老の神官が、優しい声で、境内の見所を親切に教えてくださいました。
参拝を終えて再び大通りに出、北の空を振り仰ぐと、爺ヶ岳と鹿島槍が、高みから午後の街を見守っていました。
◆ 大町の夕暮れ
そのまま、信濃大町駅へ向かいます。駅前商店は地方の小都市の御多分に洩れずシャッター街と化し、たまに見かける人影は高齢者がほとんど。
信濃大町駅では、明日の京都までの乗車券と特急券を購入し、今夜の旅館の場所を確認してから、街をもう一巡りしました。
…が、山岳博物館へ行くには遅すぎるし、商業施設はバイパス沿いに移ってしまい、旧市街地には見るべきものもありません。
とりあえず、何か小腹を満たすものを調達しにコンビニに入りました。
店内は年配者で結構賑わっていて、若い男の子と元ヤンキー風の主婦が忙しそうに接客していました。元ヤンの方(←すみません、ひどい決めつけ方)のレジに並びます。
とても穏やかな口調と優しげな笑顔で応対してくれました。
先ほどの宮司さんといい、なんだかホッとさせてくれる人が多く感じるのは、わたしが感情移入し過ぎのせいでしょうか。
駅の南にある古びた旅館にチェックイン。
薄暗いホールには人影がなく、10分ほども声を掛けて、やっと主人が姿を現しました。
取り敢えずは大浴場で強張った脚を伸ばします。部屋へ戻り、ローカル局の番組を見ながら20分ほどのうたた寝。目覚めると、秋の陽は鶴瓶落とし、外は暗くなっていました。
17時半頃に部屋を出て、今宵の酒場探しを開始。
普段は宿でお勧めを聞くことが多いのですが、この旅館は、フロントに誰もいません。
仕方なく、フロントに置いてあった居酒屋のカード2枚と市街地マップを手に、もうすっかり暗くなった外へ出ました。
フロントにカードが置いてあった店は、一店は休み。もう一店は客の姿なく忌避。
先ほど商店街で目星をつけておいた2店を目指しましたが、一方はわたしの前を歩いていた騒々しい旅行者三人連れが入っていったので、これも忌避。
もう一店は予約で満席。
せっかくの生まれ故郷訪問なのに、今宵の酒場放浪記は外れ?という嫌な予感がしました。
その後に、きっといつまでも忘れることはないであろう、思い出に残る旅の一夜が待っているとも知らずに…
◆ 大町名店街の夜
商店街の一本隣りには、小ぢんまりとした昔からの飲食店街もありました。ここも行ってみたものの、すっと暖簾をくぐれそうな店が見当たりません。
そこで、駅から少し離れた「大町名店街」という古いアーケード街へ足を運んでみました。
車一台通るのがやっとという感じの、道幅の狭いアーケード街。かつては週末のたびに賑わいを見せたのでしょうが、今では多くの店が閉業し、シャッター街と化しています。
しかし、昭和レトロな看板も残り、天井から青色の照明が吊り下げられ、少し妖しげな、数十年ほどタイムスリップしたかのような独特な雰囲気があります。
時刻は午後6時を少し回り、数軒の飲食店が暖簾を出していました。
その中で、一番すっと入りやすい雰囲気の店の暖簾をくぐり、カウンターに座りました。開店直後のため客は少なく、奥の椅子席で二人連れがメニューを覗き込んでいるだけ。
若い大将と店員の二人が、元気に応対してくれました。
生ビールをグラスで頼んで取り敢えず喉を潤し、鳥セセリのポン酢和えと冷奴を肴に、地酒に移行。大町には三つ蔵元があるとのことで、大将にそれぞれの特徴など伺い、まずは旨口の北安大國を温燗で。ベタベタした甘さではなく、コメと麹の旨みがしっかり出ている舌触り。
続けて、辛口の金蘭黒部を冷やで頂こうか、というところで、隣席に、仕事帰りらしき30〜40代の男性が腰を下ろしました。常連のようで、大将や店員と親しげに話しています。
やがて、その人が話しかけてくれ、わたしも会話にまぜて頂きました。
Aさんというその男性は、大学を出た後、しばらく中京圏の商社で営業マンとして働き、その後、親戚の経営する会社の後継者として、Uターンしてきたそう。
大町へ戻って来たがっている友達もいるけど、こんな町でしょ、家業を継ぐとかじゃないと、仕事がないんですよ。と、Aさんは言います。大町市は移住促進に熱心な自治体と理解しています。でも、リモートで働けるIT系職種などはいいけれど、極端な逆三角形の人口ピラミッドでは、介護以外のリアルな仕事は見つけにくいのだそう。
これからのEVシフトの中で、Aさんの働く自動車業界も、裾野が広いだけに大転換を迫られる人が多いことでしょう。Aさんの会社もまた例外ではなく、関連事業も始めたりして生き残りを図っているといいます。
話しているうち、お互いに福島県に住んでいたことがあるとわかり、さらに話が盛り上がりました。福島の地酒の話とか…
その当時、わたしがやっていた店舗開発の話などすると、Aさんは実に興味を持って聞いてくれました。この話をこんな熱心に聞いて貰えるのは、ここしばらく経験がない。自分の会社を育てるためにどんなことでも吸収しよう、という直向きな姿勢が素晴らしい人だ。
ー 私たち、仙台出身なんです。
背後の席に座っている女性二人連れから声がかかりました。長野の地域活性化プロジェクトのために活動しているタレントだそうで、名刺を頂戴しました。この地域ではそこそこ有名人のよう。
店の若いスタッフも会話に入ってきました。彼は関西の大学を出て、いったん就職したものの辞め、大町へやって来たそう。大将の下で、この土地でのこれからの生き方に迷いも持ちながらも、目の前のたこ焼きを真剣に焼いています。
話は尽きず、気がつけば23時。
かれこれ5時間も、この土地で暮らし、活動する魅力的な人たちとの会話に花が咲き、中ジョッキ、日本酒3合、テキーラ、梅酒を飲み干していました。
Aさんに見送られ、人気のない薄暗い商店街を宿へと、ゆっくり歩いていきました。
駅前広場から見上げると、大気は澄んで、素晴らしく鮮明な星空が広がっています。
その満天の星の下、今日出会った皆さんに、そっと心の内で頭を下げました。
皆さんのおかげで、50年ぶりの帰郷は、忘れえぬ旅になりました。
◆ 大町の朝〜山岳博物館
翌朝、上空は厚い雲に覆われ、所々青空が覗いているものの、山々は姿を隠しています。
素泊まりなので朝食を調達しに、国道沿いのコンビニへ足を運びました。通りに人影は少なく、家々の佇まいは古びています。
歩道に舞い落ちたイチョウの葉を、町内の人達が総出で掃き集めています。わたしが育った南信州の町でも昔あったな、日曜朝の町内清掃…と思い出します。あの頃、町内清掃は小中学生の役割でしたが、目の前の人達は殆どが50歳以上。
古い民家から出て来た年配の奥さんが、おはようございます、と見知らぬ旅人にも挨拶してくれました。
チェックアウトでは、また呼べども呼べどもカウンターに誰も姿を現さず、部屋の掃除をしていた仲居さんを捕まえてきて代金を精算し、プロンプトンに乗って出発。
今日は、15時少し前に松本を出る特急に乗る予定。それまでの予定はハッキリ決めていませんが、穂高あたりまではブロンプトンで自走するつもり。乗車券は昨日、信濃大町発で購入済。
まず、高台にある山岳博物館を目指しました。ここは雷鳥やカモシカの飼育もしています。
市街地からは結構な急勾配。小径車にはつらい。たまらず足をつきました。
登り切った駐車場からは、大町市街が一望のもとに見渡せました。山々に雲がかかっていなければ、絶景だろうな。
北アルプスに生息する生き物の剥製や、登山史にまつわる展示を見て、既に冬毛に生え変わった雷鳥の飼育コーナーなどを見学。
急坂を下り、市街地には戻らずに、旧千国街道を南下。
軽くアップダウンを繰り返す山の端の道は、このエリアへ走りに来るサイクリストの定番コースだそう。昨晩の居酒屋で呑んだAさんも「地元に住んでると、どこがいいのかと思うんですけど、みんな走りに来るんですよね」と言っていました。
しかし肌寒い曇った初冬の朝とあって、今日は自転車の姿は見えません。
◆ 50年ぶりの生まれ故郷は…
このエリアにも、アウトドア好きな家族が住んでいるのかな、と思われるウッディーな一戸建てが散見されます。
小学生くらいの男の子と、そのお父さんが向こうから歩いて来ました。彼らもまた、見ず知らずのわたしに挨拶してくれました。
地域の誰もが見知らぬ相手にも挨拶してくれる土地に、時々お目にかかります。見知らぬ人への声がけは、防犯の目的もあることは理解しています。そうとわかっていても、この土地の人たちは、互いに気遣い身を寄せ合って暮らしているのだな、と感じずにはいられません。
故郷は遠きにありて思うもの、と言います。五十数年前にわたしが生まれたこの町が、いつか骨を埋めに戻るべきところなのか、正直言ってわからない。極端な逆三角形の人口構造で、この先急激かつ大規模な人口減少が避けられない小さな地方都市が、明るい将来展望を描くのは容易ではないでしょう。雇用の受け皿となるべき公的機関や金融機関は規模を縮小し、製造業も海外へ移転、故郷で暮らしたくても暮らせない、というのは多くの地方都市に共通する問題。観光に関していえば、雄大な山岳の景観に恵まれているけれど、北に白馬、南に松本と安曇野というブランド力のある地域に挟まれています。立山黒部アルペンルートの入口と言っても、多くの観光客にとって、大町は通過地点に過ぎないのではないでしょうか。
しかし、この町で出会った人達は、心暖かな優しい人ばかりでした。
出会った人すべてに自分の出自を話したわけでもないのに、誰もが私の帰郷をそっと迎えてくれるかのように、故郷の穏やかな言葉で語りかけてくれました。
生まれた土地の人達と、50年以上の年月を経て繋がることができたのが、わたしには素直に嬉しかったのです。
国宝の仁科神明宮に到着。境内に林立する杉の巨木に圧倒されます。
お参りして御朱印を頂き、まだ時間はあるので、穂高の碌山美術館まで自走することにして、ナビを設定し走り出しました。
下り基調の道を飛ばしていくと、やがて県道にぶつかります。
そこはちょうと大町の南の市境でした。
改めて北の空を降り仰ぎました。雲の切れ間から、鹿島槍ヶ岳の頂が顔を覗かせていました。
京都へ戻って程なくして、わたしはは初めて「ふるさと納税」というものをしました。
数日後、三つの酒蔵の地酒と、木崎湖の畔で採取された蜂蜜が、故郷から届きました。
最後までお読み頂き、ありがとうございました。
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