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【書評】君が手にするはずだった黄金について
『君が手にするはずだった黄金について』著・小川哲 新潮社
新刊を買うのは久しぶり。しかも紙の本。
同作者の本は『君のクイズ』を読んだことがある。
当時クイズにハマっていたぼくにはとても刺さったので期待しながら新刊を買ってみた。
ノンフィクションの皮をかぶったフィクション
6つの短編からなる本書。
主人公は一貫して小説家の「小川」つまり作者本人と思われる人物。
つまりあたかもノンフィクションのような体で描かれる。
大学時代の就活に苦労した話や、当時付き合っていた彼女とのエピソード、高校時代の友人が炎上した話など赤裸々に描くものでついつい「これってノンフィクション?」と思ってしまう。
しかしながら投資のカリスマとして描かれる「ギリギリ先生」やフォロワー11万、総売り上げ100万部の漫画家「ババリュージ」なる人物はいくらググっても存在を確認できない。
現代のリアルな闇を抱えた登場人物
六つの短編にはいくつか現代的な闇をまとったような怪しい登場人物が登場する。
例えば表題作である『君が手にするだったはずの黄金について』に登場する片桐は、投資家としてカリスマ的な人気を誇ることになるが炎上する。
『小説家の鏡』という話ではオーラを読むことで悩める人を導き諭すことのできる占い師が登場する。
第5編『偽物』では、ロレックスの偽物を腕に巻いた人当たりのよさそうな漫画家が登場。
読んでいて気づいたのだが、彼らに共通していることは「全くの悪人などではない」ということ。
投資家・片桐は母子家庭の高校生に進学資金を与えて助けたりするお人好しの面があるし、占い師は対応そのものは誠実であり、占いを信じない主人公が体験したのちも「意味のないものではなかった」と思うくらいであった。
『偽物』の漫画家は物語が進むにつれてメッキがはがれてくるのだが、それでも主人公は「そんなに嫌な感じはしなかった」と(物語の中盤までは)述べていた。
等身大と承認欲求
これは主人公(≒作者)も含めてだが、「一見才能に溢れている人物たち」が多く登場し、そしてそれらがなんてことはない「何かが欠如した人物」であることが判明する。
これが本書の構成だと思う。
その欠如と向き合うことができるか否かが主人公とそれ以外の人物の分かれ目なのだと思う。
誰しもが何らかの欠如や無能感を抱えているもの。そしてそれを認め等身大の自分で生きていくことができるものとそうでないものがいる。
等身大の自分(この言葉も少々うすら寒いところがあるが)を認められなかった人々が捕らわれてしまうのが「承認欲求」でありそれこそが現代の抱える明るい闇だと思う。
主人公は「小説家に才能は必要ない。むしろ必要なのは才能の欠如ではないか」ということを語る。(後で他人の口からそれを聞いてひどく後悔するのだが)
主人公がこの「才能の欠如」をどうとらえているかは正確にはわからない。
等身大の自分を認めているようにも見えるが、その欠如すらも「他者とは違う特別感」として考えているのでは、という穿った見方も出来よう。
ねじれた構造のエンタメ
本書はわかりやすいエンターテインメントではない。
『君のクイズ』は非常にわかりやすい構成と目的で、良い意味での箱庭的なスケールの小ささが物語のスピード感を演出していた。
とても分かりやすい構造、とても分かりやすい意図で存分にエンターテインメントしていた。
(余談だがうちの父親は『君のクイズ』を少し読んで「何を言いたいのかさっぱりわからない」と言っていた。うちの親父はもう小説を二度と読まないほうがいいと思う)
しかしながら本書はそれほどわかりやすく面白い構造にはなっていない。
まず作者本人と思われる人物を主人公に据えることでリアルな世界をあくまでフィクションとして切り取るという下準備をしている。
そのうえで主人公とは「対極」としたいような人物を描くことによってその主人公自身のアイデンティティのようなものを考えさせられる。
そのうえで「ならば読者のあなたはどうだろうか」という問いが飛んでくるようなそんなメタ的な構造を持ったねじれた構造のエンタメのようにぼくの目には映った。