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【随想】貧困と格差と

 子どものころ、夏休みの思い出はいろいろある。たとえば、海水浴、花火見物、夏まつり…。どれも「あたりまえ」のことで、毎年のことだった。
 いま振り返れば、そのころは昭和の高度経済成長期。世の中、あらゆる面で活気があったように記憶する。
 それでも現実には、地域間(都市と地方)や職業の違いなどによる経済的な「格差」や「貧富の差」はあっただろう。しかし、それ以上に「あす」への高揚感が社会の中で優位にあったのかもしれない。あるいは、社会はそれに目をつむり、目をそらし、ひとはあきらめ、受け入れるしかなかったのかもしれない。
 そんなこと、子どもに分かるはずも、考えることも、もちろんなかった。

夏休みはなくてもいい?

 今年(2024年)6月、子どもの貧困対策に取り組む認定NPO法人「キッズドア」(東京)が公表したアンケート結果は、驚きをもって社会に受けとめられた。アンケートは同法人に登録する世帯に対して行い、約1800世帯から回答を得た。
 夏休みについて小中学生のいる世帯では、「なくてよい」(13%)、「今よりも短い方がよい」(47%)を合わせると6割にもなった。理由は「子どもが家にいることで生活費がかかる(エアコン代など)」「子どもの昼食を準備する手間や時間がかかる」「特別な体験をさせる経済的な余裕がない」など。どの理由も7割を超えた。社会の一断面が可視化され、「実情」を突きつけられた思いだった。

 かつて、アジアを旅していたころ、ある国の農村に足を運んだ。そこは未舗装の道路わきに土壁の粗末な平屋の住宅が点在していた。そのうちの一軒。開いたままの入り口や窓から中をのぞくと、電気は通っているようだったが、家財はほとんど見当たらなかった。炊事や洗濯の水は道路沿いにある共同井戸でまかなっているようで、このときは2人の女性が何か話しながら洗濯をしていた。
 あたりの見える範囲内に商店などない。乾季だったのか、理由はわからないが農村にもかかわらず土は乾いていた。短い滞在時間だったので断定的なことは言えないが、日本とのあまりの違いに「貧しさ」の一語が浮かんだ。

「貧困」とはなんだろう

 今夏、「貧困」について考える講座に参加した。
 そこでは貧困の捉え方として、「絶対的貧困(必要最低限の生活水準が満たされておらず、生きていくことが難しい状態)」と「相対的貧困(帰属する社会の大多数より貧しい状態)」が示された。これを聞いたとき、数十年前に見たあの農村の暮らしは「絶対的貧困」に近い状況だったのだろうかと、思い返した。

 相対的貧困を「社会的必需項目(品)」の有無から理解する手法も紹介された。ただこのとき、ある疑問が生じた。それは、なにが「必需項目(品)」かは、ひとそれぞれでないか、ということだ。たとえば、性別や年代、暮らしている地域、時代の変化、受けた教育…。これらの違いで、必需項目(品)とされるものは異なるはず。品目を限定するには、主観を伴う「価値判断」が必要になる。それはバイアスがかかることを意味するのではないか。客観性をどう担保するのか。難しい問題だ。

 「日本は貧困に対する共感が低い」との指摘もあった。これは、貧困を身近に感じたり、目にしたりする機会がほとんどないことが起因しているのでないかと思う。自身、これまで「目に見える貧困」は、公園や地下街でのホームレス、街頭で雑誌「ビッグイシュー」を売る姿くらいの記憶しかない。本当は、もっと多くの「貧困」があるはずだが。

<ビッグイシュー>
 1991年イギリスで創刊。ホームレスや生活困窮者の社会的自立を支援するストリート雑誌。内容は社会問題や自然・環境に関する特集、著名人のインタビューなど多彩。定価と仕入れ価格の差額などが販売者の収入となる。「日本版」は2023年9月、創刊20周年を迎えた。

 日雇い労働者の集まる地区で支援活動をしたかつての同僚に「行かないとわからないことがある」と、言われたことがある。
 映画「THE ZONE OF INTEREST」(邦題:関心領域)は、隣接する収容所で起きている「狂気」を気にすることなく、芝の緑がまぶしい自宅で贅沢ぜいたくにくらすドイツ人家族を描いた。
 知ろうとしなければ、知ることはできない。見ようとしなければ、なにも見えない。

危険な「自己責任論」

 一方で、貧困は潜在化する傾向があるのではないか、とも思う。一因は過度の「自己責任論」。たとえば、安定した職に就く努力が足りない。人生(経済)設計をちゃんと立てていなかった―などの社会の視線が重くのしかかる。もちろん問われるべき「自己責任」はある。ただそれが「過度」になれば、当事者を自責に追い込み、口を閉ざさせ、孤立を生む。こんな負のスパイラルを懸念する。

「子ども食堂」や売れ残りそうなパンを安価で引き取って販売する「夜のパン屋さん」が広がりをみせるのは、経済的支援だけでなく、生活に苦しむひとを孤立させない「居場所」としての意味もあるからではないか。  

「失われた30年」の間に、社会は大きく変わった。
 いま、6人に1人が貧困状態ともいわれる。決して贅沢とはいえない程度のスポーツやレジャー、旅行、習い事などを、主に経済的理由から子どもに我慢させざるを得ないことで起きる「体験格差」も社会問題になっている。
 保護者の経済力など、生まれ育った環境によって受けられる教育に差が生じる「教育格差」も指摘される。

 3層のセーフティーネット(雇用、社会保険、公的扶助)は脆弱とも言われる。転がりはじめたら止まらない「すべり台社会」。家族を含め生活状況の変化や病気、予期せぬ失業…。だれにでも起こりうることが、貧困につながるリスクとなる社会になっていないだろうか。
 憲法が保障する「生存権」は揺らいでいないか。

<失われた30年>
 1990年代のバブル崩壊後、日本経済は停滞し、物価も賃金も上がらない「緩やかなデフレ」が続いた。
 この間、95年には企業が非正規雇用を増やすきっかけになったとも言われる提言「新時代の日本的経営」を日経連(現経団連)が発表。以後、「非正規」はほぼ毎年増え続け2022年には95年から倍増、雇用者の4割近くになった。
 経済協力開発機構(OECD)の対日経済審査報告書(2006年)で、日本の相対的貧困率は加盟国中、アメリカに次ぐ2位に。リーマン・ショック(08年)による不況が世界を覆う。
 年収300万円、格差社会、ネットカフェ難民、名ばかり管理職、派遣切り、ブラック企業など新語・流行語が相次いで生まれた。

<日本国憲法第25条>
(生存権及び国民生活の社会的進歩向上に努める国の義務)
第1項
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
第2項
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

目を逸らさずに

 経済的に困窮した人たちに食料を配布する「フードバンク」の利用者が北海道で増えている。2023年国民生活基礎調査(厚生労働省)で、6割を超す子育て世帯が「生活が苦しい」と答えた。雇用者の4割近くを占める非正規労働者の賃上げの動きが鈍く、格差拡大の懸念が強まっている。
 メディアは厳しい現実を伝え続ける。

 持続可能な開発目標(SDGs)の1番は「貧困をなくそう」だ。国際社会も貧困を看過できない問題として直視している。

貧困は、社会が目をそらさず、
真正面から向き合い対策を講じるべき、
喫緊の課題だ。

(了)

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