【随想】おなまえ かいて
おなまえ かいて
作:ゼイナ・アッザーム(Zeina Azzam)
訳:原口昇平
あしに おなまえかいて、ママ
くろいゆせいの マーカーペンで
ぬれても にじまず
ねつでも とけない
インクでね
あしに おなまえかいて、ママ
ふといせんで はっきりね
ママおとくいの はなもじにして
そしたら ねるまえ
ママのじをみて おちつけるでしょ
あしに おなまえかいて、ママ
きょうだいたちの あしにもね
そしたらみんな いっしょでしょ
そしたらみんな あたしたち
ママのこだって わかってもらえる
あしに おなまえかいて、ママ
ママのあしにも
ママのとパパの おなまえかいて
そしたらみんな あたしたち
かぞくだったって おもいだしてもらえる
あしに おなまえかいて、ママ
すうじはぜったい かかないで
うまれたひや じゅうしょなんて いい
あたしはばんごうになりたくない
あたし かずじゃない おなまえがあるの
あしに おなまえかいて、ママ
ばくだんが うちに おちてきて
たてものがくずれて からだじゅう ほねがくだけても
あたしたちのこと あしがしょうげんしてくれる
にげばなんて どこにもなかったって
※現代詩手帖 特集「パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く」から(2024年5月号)
原文はこちらから↓
https://voxpopulisphere.com/2023/10/30/zeina-azzam-andy-young-david-ades-three-poems-about-gaza/
◇ ◇
読むのがとてもつらい詩です。
もう30年も前の話です。チェコスロバキア共和国(当時)のプラハからバスに乗ってテレジンという町に行きました。旅の途中偶然に、そこにナチスドイツの収容所が残されていることを知ったからです。
プラハのバス乗り場で切符を買い、一人バスに乗りました。途中、軍服姿の若い男性が乗ってきて隣に座りました。ドイツ語の辞書を片手に二言三言やり取りしました。そのとき、テレジンに向かっていることを伝えると、彼は「ムゼウム」と言いました。会話はそこまで。その後、彼はただ静かに座っているだけ。こちらは車窓からの風景を眺めていました。
プラハの街を出たバスは郊外、つまり「田舎」に向かいます。本当にテレジンに着けるのか。そして、今日中にプラハに戻れるのか。不安になったことを覚えています。
1時間ほどたったでしょうか。進行方向右側に、いままで見えていた建物とはちょっと趣の異なる建物群が見えました。
この建物群を通り過ぎて少し走るとバスは広場に入り、停留所に止まりました。周りに家はなく人の姿もありません。そのとき隣の男性が「テレジン」と言って、着いたことを教えてくれました。男性もここで降りました。ほかに2、3人の女性もバスを後にしました。
男性に帰りのバスが出るバス停を教えてもらい、それで彼とは別れました。バス停は到着したところのほんの先にありました。プラハ行きバスの時間を確認できたまではよかったのですが、町の案内図のようなものは見当たりません。おそらく途中に見えた建物群がムゼウムだろうと考え、来た道を20分ほど歩いて戻りました。やはりそこがムゼウム、かつてのユダヤ人収容所でした。
門に向かう道を歩いて行くと右側に整然と並ぶ、多数の墓石が目に入りました。見ると、名前が刻まれた墓石だけではありません。名前の代わりに数字が刻まれたものがあります。そして、何も刻まれていない墓石も少なくない数ありました。数字や無記名の墓石。これを見たとき、正直、違和感を覚えました。命を理不尽に奪われただけでなく、そのひとが生きていたことすら否定されているように感じました。死をいたみ丁寧に埋葬しているのでしょうが、そこには人間の尊厳などないように思えました。
建物群に入る門の上には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になれる)」とありました。ポーランドのアウシュビッツ強制収容所と同じです。
ガイドを頼まず、かつての収容所を一人見てまわりました。2、3段の粗末な木の寝台がある居住スペース。あまりに粗末です。
洗面台は、収容者が不必要な動きをしないよう、ガラスは顔を上げればちょうど顔全体が映るよう角度がつけられていました。
そして、シャワー室と焼却炉。ここで何人の命が奪われ、灰になったのか。言葉を失いました。
あとで調べると、テレジンには約14万4000人のユダヤ人が収容され、うち3万3000人がここで亡くなり、8万8000人がアウシュビッツなどに送られ、殺されたとのことでした。
上記の詩「おなまえ かいて」を読んだとき、テレジンで目の当たりにした、名前の刻まれていない墓跡が整然と並ぶ光景を思い出しました。同時に、人間はどこまで無慈悲になれるのかと、暗い気持ちになりました。
「パレスチナ問題」は単純でないでしょう。でも、なぜユダヤ人はかつて自分たちが経験した非人道的な行為を、パレスチナのひとに対して行うのか。自分の家族が同じことをされて平気ではいられないでしょう。それはパレスチナのひとだけではなく、世界中のひと、みな同じはずです。もうこれ以上の犠牲者は出してほしくない。もう、非戦闘員の女性や子ども、老人らの悲痛な顔を見たくありません。
「あたしはばんごうになりたくない」
「あたし かずじゃない おなまえがあるの」
言葉のひとつひとつが心に突き刺さりました。
(了)