息子が「ぼくはどこに行っても外国人に見えるんだね」と言った
序章
「ぼくは、どこに行っても外国人に見えるんだね」
ついに来たか……
ほとんどのハーフの子どもたちがぶつかるであろう壁、アイデンティティクライシス。
現在私たちは実家のある小さな地方都市に一時帰国中である。
昨日地元のショッピングモールで買い物をしていたとき。
とあるお店に入ってお会計をしていたら、レジのお姉さんが息子たちを見て声をかけてくれた。
「もしかしてお父さんは外国の方ですか?」
「はい、子どもたちの父親はカナダ人なんです。」
「わぁ、そうだと思いました!」
そこにはなんの他意もない。
私とお姉さんはにこやかに会話を進めた。
かわいいねとか日本語上手だねとかおだてられてまんざらでもない様子の次男とその横で少し照れたように笑う長男。たくさん話しかけてもらって、二人とも嬉しそうだった。
ところがお会計が終わってお店を出たところで長男が言った。
「やっぱりぼくたちって外国人に見えるんだね。」
お姉さんの言葉に傷ついたとかそういうわけではなく、その言葉は何気なく発せられたものだったと思う。でも、私の中ではその一言が大きく響いた。
息子が自分自身をどのように感じ、どう受け止めているのかに改めて気づかされた瞬間だった。
ハーフの子どものアイデンティティ
息子たちは、父親がフレンチ系カナダ人、母親が日本人といういわゆるハーフだ。彼らはその結果として、二つの文化と価値観を持つことになった。
ちなみに、私は日本語のハーフという言葉はあまり好きではない。
カナダ1/2 +日本1/2=1ではなく、カナダ1x 日本1=1であるはずだ。
ハーフの子にも色んなタイプの顔があると思うが、息子たちは日本人の言うところのいわゆるハーフ顔である。なので日本人に囲まれていると、周囲の人々は彼らを「普通の日本人」として見てはくれない。
長男は最近、日本で生まれ育った両親共に外国人の人たちのYoutubeを見たらしい。その人たちは日本人と同じ日本語レベルなのに、どこに行っても英語で話しかけられてしまう。長男はお店を出た後このYoutubeの話をして、「日本で外国人の顔で生きるって大変だね」と言った。
ただ、私も息子たちもアジア人顔の日本人が大部分を占める日本でこれはしょうがないことだと割り切っている。
カナダではアジア人として生きる
日本ではアジア人に見られない息子たちだが、じゃあカナダではどうなのか。
カナダではアジアにルーツを持つ人という扱いになり、どちらかというとアジア人として見られることが多い。そして、中国系のカナダ人や移民が多いためまずは中国人に間違われ、それを日本人だよと訂正する。
つまり、カナダ人であることを前提として、自分たちは日本人であるということを主張しながら生きている。息子たちはまだアイデンティティなんて言葉も分からない幼い頃から、そうやってカナダで暮らしているのだ。
日本に帰るとカナダ人*として接せられ、カナダに帰るとアジア人として見られる。
このことが、中学生の長男の中で小さな矛盾として心の中で燻り始めたようだった。
ハーフであることが強みだと思えるサポート
家族として、私たちは息子が自分自身を受け入れ、自信を持って生きられるようにサポートすることを心がけている。夫と私は、彼らが二つの文化を誇りに思うように、それこそ赤ちゃんの頃から言語のみならず文化や習慣などを教えてきた。
その試みは成功していると感じていて、実際息子たちは
「カナダと日本両方ともとってもいい国だから、ぼくたちはその二つにルーツがあってラッキーだね」
と言ってくれる。
二つのルーツを背負って生きることは、息子たちにとって挑戦でもあり、同時に大きな強みでもある。彼らは日本とカナダの両方の文化を理解し、異なる視点から物事を見ることができる。また、多様な背景を持つ友人を作り、異なる価値観を尊重する姿勢を学んでいる。これは、将来彼らがどんな道を選ぶにしても、大きな財産になると信じている。
未来への期待
長男が「ぼくはどこに行っても外国人に見られる」と言ったとき、その言葉には彼の成長過程における多くの気づきが込められていたと思う。彼は自分が異なる存在であることを受け入れ、その中で自分自身をどう位置づけるかを考えるようになったのだ。
彼らには、自分のアイデンティティを大切にしながら、どんな環境でも自信を持って生きてほしいと願っている。
「ぼくは、一体なに人なのか。カナダ人なのか、日本人なのか。」
その問いかけは、彼らがこれからの人生で何度も向き合うであろうテーマだと思う。その答えを見つける旅の中で、もしかしたら世の中のつらい現実を突きつけられるかもしれない。
長い旅になるかもしれないけれど、息子たちが自分自身を誇りに思い、多様な世界で胸を張って生きていけるよう、私は全力でサポートしてあげたいと思っている。