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フェイクスピアをうしろにする。

山に登ろうと思った。

123便が最期に辿り着いた御巣鷹山。
monoをはじめ、楽やアタイ、イタコたちや123便のクルーが集まり、死者の夢に覆われた恐山。
あの、山の斜面の様に傾斜した舞台。

山に登るんだ、私は。
それで何がどうなるのかは、さっぱりわからないけど。
何故か、その事が頭に浮かんだら、行かずにはいられなくなった。

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いつまでも治らないフェイクスピアロス。
翌日からの、あっけないほどいつも通りの私の日常。 家のこと子どものこと。
仕事の時だって、目の前にいる人に全集中しないといけないのに。
あの日からずっと、半身を大千穐楽のあの場所に置いてきた様な感覚だった。

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山は子どもの頃からよく登っている。
山好きの両親に連れて行かれ、奥多摩や日本アルプス、思えばけっこうな高山や鎖場岩場も、よくわからないままに登っていた。
何も遮るもののない海も好きだけど、山にいくと「帰ってきたよ!」と感じる。
あの、山が生きてる匂い。
微細な地中の虫たちから、地衣類から下草から大樹まで高低差のある生態系。そこにいる生き物たち。全てが有機的に無駄なく美しく繋がっていて、包み込まれるように感じる。
人間なんて全く呼ばれていない感。         けど、行くと「あぁ来た?しばらくいてもいいけど?」って言ってくれてる感じがする。
勝手にそう思う。

一生さんの沼におちてから、その活動が忙しく。
忙しくても時間を捻り出して時々行ってた山も、しばらくご無沙汰していた。

みんな知ってるとおり、一生さんも山が好きだ。登りながら考える。
「一生さん…私、山に登ってるよ。私は趣味のあう女だよ♡」
「一生さん…今何してるのかな。舞台の後、大丈夫かな。供給ないけど…待ってる♡」
「一生さん」「一生さん……」

…ゼエゼエ。
危ない。ケガする。
低山だろうがなんだろうが、登り下り時の瞬間の足の置き場や体重移動は、常に一定の集中が必要。
邪念ありすぎだ。
きちんと無になって行かねば。

8月の山は暑い(あたりまえ)。
蝉の鳴き声に包み込まれる。
あの日の御巣鷹山も、こんなふうだったんだろうか。

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この数ヶ月、私の身に起きた、嵐の様な出来事はなんだったんだろう。
ドラマ「天国と地獄」で、高橋一生さんの最後の「はい」と涙、圧倒的な魅力にドボンと沼に墜ちた。
次に舞台の主演をする事を知り、「へえ舞台もされるんだ(←失礼極まりない)。…生で見られるってこと!?チャンス!!」と、人生初の観劇に挑んだ。
チケットを何とか二枚取り、SNSでイセクラさんたちの優しい界隈に入れてもらった。
そして、6月1日、「高橋一生」は本当にこの世に存在するのか確認するため、期待に胸を震わせながらプレイハウスのゲートをくぐった。

観劇後。
帰りの電車の中で、ものの見事に撃ち落とされた私は、ただ一点を見つめていた。
何?。何なん、これ。
全てを絡め取られる様な言葉の数々。
日航機墜落事故?あの舞台の上。
コトバの一群。父と子。
生きるよ?
魂抜かれて全く言葉にできないし、しなくてもいいやと思い、ただただ揺られていた。

それから私は、何かに取り憑かれたように、パンフレットや戯曲を読みまくり線を引き書き出して「勉強」した。
わかりたい、わかりたいんだよ。
一生さんや野田さん、カンパニーの皆さんがあの時表現していたものを。
SNSやネットを読みあさりやりとりしながら、自分の2日目に全てを賭けるつもりでいたら、奇跡的に東京の千穐楽・大阪の大千穐楽のチケットをお声がけいただき、行くことができた(声をかけてくれたお2人には永遠に感謝)。
大千穐楽は大阪。私の町からは、早朝に出て新幹線に飛び乗れば日帰りできる。
東京の2日間と千穐楽の興奮を残したまま、新幹線に滑り込んだ。

東京から大阪に引き継がれる事に、いくつもの大きな意味がある舞台。
大阪の地でも受け入れられ大反響で、さらに進化をとげているらしい。
このご時世、大阪観光もできないので、大阪気分を味わう暇もなく新大阪駅から新歌舞伎座まで直行。
イセクラさんたちと会えたあと、いざ大千穐楽の2階席へ。
いつものあの曲が流れ、最後の舞台が始まる。

いくつもの言葉遊び。
言の葉とマコトノ葉。
フェイクとフィクションとノンフィクション。
父と子。
客席との化学反応でより研ぎ澄まされ、真摯さを増しているお芝居。
最後、全てのものが一つに集約されていくあの感じ。

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終盤、物語を追いながら、物語とはまた別の部分で涙が止まらなくなった。
何だこれ。私は何を見ているんだ。
今日まで1人も欠ける事なく走り抜けてきたカンパニー。今日を最後に、この愛しい世界は終わる。
あの空間がひとつになった熱気と大きなうねり。
舞台。舞台って何だ。
いったい私に何を見せてくれているんだろう。

最後に山にかえる時の一生さんの笑顔。
舞台裏にちらりと見えた、全ての出番が終わった後の、舞台へ向けた大きなお辞儀。
橋爪さん、加代子さんの最後のセリフ。
新歌舞伎座、満員の客席の圧倒的なスタンディングオベーション。
カンパニーの皆さんの、あふれて輝く笑顔。
鳴り止まないカーテンコール。
野田さんと一生さんの美しい座礼。

帰りたくなかった。
いつまでもここにいたかった。

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あぁ全てを忘れたくない。
忘れたくないんだよ。
そう思って、私はいまだに前に進めずにめそめそしている。

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舞台でも映画でも小説でも、何でもそうだけど。
素晴らしい虚構は、それだけが素晴らしいのではなく、実はそれが存在するこの世界そのものが素晴らしいのかも、と思わせてくれる。
だから私も、舞台の期間中、何度も何度も「ありがとう世界」と思ったのだ。

パンフレットに載っていた「稽古場見学記」。
あの舞台も、読み上げから始まり、戯曲を読み込み何度も稽古を積み重ね、地道に話し合い考えまた話し、やってみては考え試行錯誤する。作品、台本、台詞、監督、スタッフ、共演者、誰一人欠けても成立しない。
あの奇跡も、そうやって作り上げられている。
プロフェッショナル達の集まりだから、そう簡単に真似できるものではない事はわかっているけど、でも何かを作りあげる事は何だってそう。同じだ。

演劇って、役者さんたちがなんのアイテムも飛び道具も持たずに、舞台の上でほぼ身体ひとつで、リアルタイムに勝負する。その力強さと一回性。
めちゃくちゃシンプルで、だからこそ、より近くにいてくれて、力をくれる感じがした。

その演劇の奇跡に少しだけ参加させてもらって、感じたこと。
私たちが日々繰り返している、くだらない出来事も、あほみたいな日常も。
何かを強く願い、想い続けることで、もしかしてささやかな奇跡に辿り着けるのかもしれない。
世界って悪くないかも。
そんな力をもらった。

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まだフェイクスピアの中にいたかったら、気持ちがおさまるまで、好きなだけいればいい。いつだって思い出したらぐるぐる考えたり、行ったり来たりすればいい。
そして、いつかは薄れていく、忘れていくのかもしれない。
あんなに想って想って想っていた事が、少ずつ脳内を占めなくなる。違うことに心を移していく。
けど、その事を、恐れなくても悲しまなくてもいいと思った。

人生の中のこの数ヶ月、フェイクスピアにとらわれ夢中になって過ごした。
あー、幸せだったな、私。
それだけでいい。

私の人生に意味はあるのかって聞かれたら、たぶん「ないです」って答えるけど。
ただ、何故かわからないけど与えられたこの私の日々を、こうやってうめていきたい。

これまで出会ったたくさんの人たち、いくつもの物語で、私は出来ている。
人生って、たぶんそういう時間の積み重ねのこと。
心から夢中になり、「ありがとう」って思えることがある。
それが「幸せ」っていうこと。

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私の中のフェイクスピアは、いつだってこの夏空とともにある。
いつだって思い出せる。              私の心の一部は、フェイクスピアでできているのだから。

ありがとう、私のフェイクスピア。

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辿り着いた山頂で、何故か少し涙がでた。
けどもう大丈夫。
Life goes on、人生は続きます。

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