舞台「フェイクスピア」を観て。
【演劇、舞台について】
今回、私は本当に本当に頑張ったのだ。なんせ舞台初めての初心者だし、舞台を観に行けるのは4回だけだし(行けるだけでも恵まれているのだけど)。
けど、わかりたい。わかりたいんだよ。一生さんや、カンパニーのみなさんが表現しているものを。
その一心で、戯曲を何度でも読み込んで、他の紙にも書きだして、流れをざっくりとそらで言えるくらいには頭に落とし込んだ。
こんなに自分からすすんで「お勉強」したのはいつぶりだろう。必死だよね、もう。
けど、劇場に行ってみて震えた。やっぱり違うんだ。紙に書かれた言葉だけでは、全く。
声。存在。動き。空間。
演じる人たちの。そして、私達観客の。
そしてあの時、プレイハウスというあの空間。
そういうものがなければ、戯曲のあの目に見える言葉たちは単なる断片。何も語ってはくれない。
考えてみればあたりまえ。
はからずも、この再開された舞台で、野田さんが伝えたかったもの…かな?
それを自分の身体で体感し、腑に落ちた。
誰にも聞こえない言葉、それは言葉だろうか。
演劇は観客がいて初めて成り立つ芸術です。
【父と息子】
〇冒頭のmonoの言葉
「誰にも聞こえない言葉は言葉なのだろうか」
「何のために誰もいない森で私は言葉を紡いでいるのか」
この言葉には2つの意味がかけられていると思った。
・観客のいない、幕を上げられない舞台では、届ける言葉を持たない役者たち。
・あんなに息子の事を思いながら、その言葉を届けられなかったmono。
mono機長はあの30分間、目に見えない言の葉、声を残した。けど、声にすらできなかった「想い」があった。最期に息子の事をこんなにも想いながら、残す事ができなかった。一番届けたかったそれを、最後に会って伝えられる物語。
○死者と生者が混ざり合う恐山の夜。死者の夢の中。会いたかった人と会える、伝えたいことを伝えられる。ある意味「黄泉がえり」の様な世界。父と子の、本当に美しい物語だった。
そこにはあの123便のクルーたちもいた。乗客もいた。目を覚ましたmono機長に引っ張られて自分が何者かを思い出し、集まってきた人たち。みんな会いたかった人には会えたんだろうか。
【フィクションとノンフィクションについて】
シェイクスピアだって誰だって、表現する方なら知っているはず。作り物の「フィクション」だって、その中にみんな真実を込める。観客も作り物だと知りながら、その中に紛れもない作り手の「想い」や「真実」をみるからこそ、それに救われ、その中に生きる事ができるんだよね。
「フェイク」と「フィクション」の違いは何だろう。「ノンフィクション」と「真実」の違いは何だろう。
全ては混沌としていて境界線なんか無いとしたら、何を指標としていけばいいんだろう。「想い」だろうか。
【あの「言葉の一群」を使うことについて】
この美しい物語を創るために、あえて、あの現実におきた事件を持ってきたわけ。沢山あるんだろうけど。
・現実に起こった事であるというインパクト(野田マップではよく使うんですね)。すでに共有されている悲劇に、みんな否応なしに、圧倒的に感情を持っていかれる。
・上演中止、または無観客上演を言われていたコロナ禍。しばらく上演する事が出来ず、途切れてしまった期間があった。「上演中止は演劇の死」「無観客なんて芝居とは言えない」そう言い続けていた野田さんは、世の中の記憶がまだ風化していないこの事故、この「言葉の一群」を使う事で、観客をさらに強く共犯者にしたかったんじゃないか。観客があってこその舞台、ということを強く示したかったんじゃないか。
・あの「言葉の一群」に出会った時から、ずっといつか使ってやろうと思っていた。今こそそのチャンス?
・そしてそれを表現できる、高橋一生という稀有な役者がいた。一度やると決めたなら、きっとバクバクと噛み砕き咀嚼し腑に落とす。彼は絶対に逃げないんだろうな。
あの時の劇場空間。オセロのコマが、最初はひとつふたつと裏返り、ある時点から加速度的にざーー…っと黒く黒く裏返っていく様を目のあたりにした(もちろん自分もその中のひとつ)。
これ、あの事故じゃないか。あの事故を、あの絶対的な言葉を、ここでこうやって扱っていいのか。否応なく観てしまうけど、いいのか自分。
胸ぐら掴まれて息ができなくなる様な感覚の中で、ただ見続けるしかなかった。
あの時、あそこはひとつの真空になっていた。まるであの時の機内の様に。
「鎮魂」なのか?
「鎮魂」は、このやり方なのか?
野田さんは演劇を創る人だから、舞台にするとこうなるのか?
いや鎮魂だけじゃない。これは多分、挑戦なんだろう。「舞台」というフィクションの中に、あの「言葉の一群」という圧倒的なノンフィクションを落とし込む。美しい物語に料理する。
けど、料理していいのか?
大勢の物語でなく、個人が特定でき、まだ血を流してる人もいるかもしれないあの事故を。
野田さんはやっぱり「舞台」をやりたかったんだろうな。鎮魂よりも、その事がやっぱり勝っている気がする。それを不謹慎と言われるならそうかも知れない。
けど、「舞台」だって野田さんが命、人生をかけてやってきていることだ。「舞台」って何だろう。「演劇」って何だろう。それはいったいどういうものなんだろう。
野田地図、ならぬ野田世界。野田宇宙。その膨大な入り口に立って、「わぁぁぁ…」と見回すだけしか今はできない。
色々心配になる部分もあるけど、救いなのは、彼らが1人じゃないこと。
多分、カンパニーはとても良い空気で、日々生きている「舞台」を創り上げる手応えと喜びに満ちている様に見えた。この観客の反応も含めて、全てを理解し受け止めている様に見えた。
みんな、とてもいい顔をされていた。
【最後に】
私の人生の中の125分×4回、舞台の上のあの場所に連れて行ってくれた事を深く感謝いたします。
本当にありがとうございました。
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