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「だから荒野」と、罪を許すこと。

「だから荒野」を観ました。

無理解な家族にキレた主婦・朋美が、ある日「家」を脱出して自分自身を取り戻していくロードムービー。パワハラ的な夫をはじめ、無関心な息子たちやら、家でのエピソードが「あるある!」で、そこはめちゃくちゃわかった。
家出してからも車を乗り逃げされたりヒッチハイクしたり、いよいよ途方に暮れた所で、老人と青年が乗った車に運良く同乗させてもらい、友人のいる長崎を目指す。

鈴木京香さんは大好きだけど、今回はその役に今ひとつ共感できなかった。その苦労はそうだろうけど、ちょっとあなた、見込みが甘くないか…?とか、引きこもりの息子を置いて出て行く事に、もう少し葛藤がないの?とか思ってしまう…。

むしろ、行き着いた長崎で出会った、その土地ならではの悲しみや怒りを背負った2人。亀田章吾と語り部の山岡さん。美しい街並み。それらに魅せられた。

【亀田章吾】

彼はいつもふんわりした表情。
ここにいるけど、心はどこか他の場所にある様な。
こちらを見ている様な見ていない様な、どこかに空洞を隠している様な。

施設で育った彼は、多分、自分自身をきちんと見て、受け止めてもらえた経験が少ない。
ずっと人を騙して生きてきた、と言っていた。
誰かの懐にすっと入り込んで寄生する事には長け、けどどこか、傷ついた子どもの影が見え隠れする。
そして、施設を出た子は大学などもほぼ行けず、高校を卒業した18歳で、社会の中で自力で生きていかなきゃいけない。そういう過酷な現実。生きるすべを他には持たず、誰にもケアされないそのままの脆さで、きっと罪と年だけ重ねてきたんだろうな。

原点は、子どもの頃にお年寄りの手伝いをしていた事だったのかな。
語り部の人をサポートしたいのも、認知症の人の生活を助けたいのも、全くの嘘じゃなかったんだと思う。
けど優しくサポートしながら、日々を共に過ごしながら、一方で彼の手はその懐からお金を抜き取る。
「自分の生活に必要な分しか盗っていない」と言っていた。確かに、彼の上着はいつも同じ。あの黄色のジャケット。自分の家だって、たぶん無い。
盗ったお金でラクしたり、贅沢をしたいわけじゃなかったんだよね。
「笑ってくれるのが嬉しかった」と言っていた。
それが、彼がやっと見つけた居場所だったんだろうな。

彼はおそらく、本当の意味で抱きしめられた事がない。
朋美に「抱きしめてもいいですか」と言ったけど、その目は瞬間、何かに必死ですがる様な色を見せた。本当は「抱きしめてほしい」って言いたくて、言えなかったのかな。
そうして自分の弱さも罪も全てひっくるめて、抱きしめられた彼は、やっと人のかたちをしていいと言ってもらえた陽炎の様だった。


【語り部 山岡さん】

人を寄せ付けないオーラを放ち、いつも厳格な渋面で、一方的に戦争の悲惨さを語る山岡さん。
その正しさは周囲の人から距離を置かれ、時には無視される。そして程なく忘れられる。

原爆の被害の悲惨さ、その罪深さを語る彼。
けどそれを語りながらも、心の中には、原爆投下時の長崎で自分が犯した罪を抱えていた。
戦争に対して語る尽きることのない怒りは、本当は彼自身に対するものでもあった。
罪を犯した自分自身にも怒り続け、誰にも言わず、決して許さず。
そして、一生一人で生きていく決心をした。
何十年にもわたる、その孤独を思う。

ずっと一人で檻の中に住んでいた彼は、人生も終わりに近くなって初めて「自分」と「罪」を語れた。
語り部なのに、本当に言いたい事はちっとも語れていなかったんだな。
そして語れた事でやっと、長く長く自分を縛っていた「孤独」をほどき、救われたんだろう。

【2人(亀田・山岡さん)】

長崎という地は、被爆地であり、炭鉱の街でもある。
多分、亀田の生い立ちは、その炭鉱の島の過酷な盛衰と共にある。生まれた時から父を知らず(炭鉱夫だったそう)、5歳で施設に預けられた。
そして、9歳の時に被爆した山岡さん。

2人とも何かにとても怒りながら、同時にとても悲しんでいる。
「被爆」や「施設で育った生い立ち」という、背負わされた過酷な運命に対して。
同時に、償えない罪を抱える自分自身に対して。
そういう意味で、彼らは相似形だった。

人の生は、否が応でも、どんなに足掻いて必死に生きようとしても、生まれ落ちた場所やその時代の出来事、時代の渦にいともたやすく翻弄されてしまう。
そのはかなさと悲しさを想った。


**

(ここからはイセクラ目線が入ります)
今回、一生さんのクシャ笑顔は一切なし。いつも柔和な表情で、心がどこにあるのかわからないアルカイックスマイルを浮かべています。
亀田という青年の存在の哀しさと、最後にはその救済を感じさせてくれます。
2014年の作品。
若い。美しい。好きです。

頑迷で人の意見を聞かず、語り部仲間からも煙たがられてしまう「山岡さん」。
演じていた品川徹さんが、一目見ただけでそんな所も「全てお察し」な感じの、完璧な存在感でした。
実際、正しすぎて微妙に触れられにくい存在である「語り部」を、罪を抱える存在としてとても人間くさく示してくれていてよかった。

心の中の自分の罪を言葉にすること、語ることがキーになっている。
誰しも心のどこかで、心の奥底にある思いを聞いてほしい、知ってほしいと思っているのかな。

言葉にすることが必ずしもいい事とは限らない。
心の奥底の底、自分のコアな内臓みたいな所をやっとの思いで晒してみても、思ってもなかった反応が返ってきてまた傷を負う事だってある。

ただ、言葉にすること、話すことには必ず相手がいる。
この人になら、話してもいいかもしれない。話したい。私の想いを知ってほしい。
聞いてくれるだけ、知っていてくれるだけでいい。
そう感じられる相手がいる。
そういう状況があってくれた。
その事だけで、もう人は救われているのかもしれない。

「怒りの広島、祈りの長崎」と言われるらしい。
古くからキリスト教徒の方が住まう、信仰の地でもあるからかな。
きれいだったな、長崎の街。
たくさんの人の祈りが染み込んでいる土地は、いつだって静かで美しい。
傷ついた人たちが、どうか等しく癒されますように。


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