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空のお墓

郷里に戻るたびにお墓参りをするのに、私は一度も、そこに父がいると感じたことがない。知らない家のお墓に手を合わせているような、空っぽのつくりものを拝んでいるような•••。嘘っぽさ、虚しさだけが私を覆う。
なぜなんだろう。

そのお墓に父の遺骨を納めたのは、私だ。
墓石の蓋を開けて、かがみ込んで奥に白い骨壷を置いた。
「入り口の所が空いていると、次の人を呼び寄せると言いますよ」と和尚さんから言われ、慌てて一番手前まで引き寄せた。

その記憶は鮮明だ。でも、それよりも現実味を伴って蘇るのは、去年、父と妹とそのお墓を掃除をした記憶だ。ブラシまで持って行って、3人で長い時間をかけて掃除をした。
両親が自分たちのためにとずいぶん前に買ったので、誰も入っていないお墓はすでに文字が緑色になり、砂利を敷いた狭い所に草が茂っていた。
季節が良かったので、3人で長い時間掃除に熱中した。
役割分担をして、黙々と共同作業をすることが妙に楽しく、終わった後は達成感を一緒に味わい、うれしかった。
その時のことが、納骨の記憶よりも近くに、鮮やかに感じる。

亡くなる半年前まで運転し、仕事をしていた父、
ある日、自宅で倒れていた父、
入院中「情けないジジイになった」と声を詰まらせた父、
退院後、張り切ってリハビリをしていた父、
亡くなる直前まで交わした言葉、
布で覆われ、運ばれる父・・・。
違う時間の中の父が、次々と浮かび、混ざり、私は、わからなくなる。
元気だった父だけが、現実感を持って蘇る。
あの父が、骨となってお墓の中にいるということに、なんの現実味もない。そこに父がいるとは感じられない。
あの、元気な父は、どこにいるのか。

一体どこに行けば、私は、あの父の存在を感じることができるのだろう。
どうしたら、友人たちが言うように「いつもそばで見守ってくれている」と感じられるのだろう。
それは、今の私の切実な問いだ。

今、父は、私の記憶の中にしかいない。
それは、「私と一緒にいる」ということなのだろうか。
いや。違う。父はいない。父は消えた。
私は、ずっと父を探している。



* 2024年1月に父を亡くしてからの日記「親を喪う
*取り壊された実家から出てきた古いミシンのこと「取り壊された記憶
*父とのことも書いたエッセイ集『「できる」と「できない」の間の人』(晶文社)


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