クリムトの美しくさの追及とは?
これはあくまで私の見解なので美術論というより見解として読んでほしいです。
間違ってる所も多々ありますが、お許し下さい。
自分から見たクリムトのイメージは、安易だが大学生くらいの時に女子が填まりそうというイメージ…誤解ならごめんなさい(笑)女友達の部屋に実際に飾っていたのを見た事がある。
女子だけじゃなくクリムトの展覧会に行き本物を見て、美大を受験したという話をした男の子もいた。
なんだろう女性的な美意識の高い人が、退かれる画家なのか?
私も暫く前に国立国際美術館のクリムト展に行って、ユディトの本物を見た。初期の作品や、その他のエゴンシーレなどの画家の絵も飾られていた。
クリムトは本やネット、テレビで見ていたのである程度、情報や認知はしていた。勿論選りすぐられた有名な画家なのだから承知の上だ。
しかしそういった女性的な美意識の持つ人達とは、自分は少し違う意見を持つ、これは自分が中性的で男性目線が分かるから、かもしれないが…
クリムトはアトリエにたくさんモデルを抱えていた。
若くして成功し地位も名誉も得て、美しいモデル達は競い合って、クリムトに自分を描いて欲しと思っていた。
そのクリムトの描く絵にはどこか、思春期の少年が憧れる女性像があるような気がする、とてもモテただろうし噂も多かっただろう。
だが愛する人はいたが、結婚や家庭を持とうとしなかった、彼は思春期の性への憧れのような感覚が、経験を積み大人になってもベースに残っていたように思う。
だから彼の描く裸体が挑発しているように見える、深い所で怒りにも似た挑発的な感覚が絵から表れる。
それはただ性的な意味でか?
愛する人がいても結婚を選らばなかった自分に対してか?
有名人だから世間や周りの人間達が自分自身に持つイメージに反発したのか…?
嫌、違うクリムトが怒りを感じていたのは、美術に対して保守的な考えを持つ美術界にだ、時代がそういう時代だったからだ。
女性の裸体を描くのに、ギリシャ神話のビーナスを脱がさないと裸体を描けないような時代なのだから、クリムトの、あの解放的な性の表現や、艶かしい裸体は、その時代の美術評論家から批判の的だった。
だからこそクリムトは描き続けたし、自分の美しいと思うもの、描きたい物を追及した。だから彼の絵には、挑発とも取れる怒りを感じた。
世の中の古い考えへの怒りなのだ。
そして話は変わるが、先ほども述べたクリムトの愛する人、それは接吻のモデルになったエミーリエ・フレーゲだ。
彼女とは相思相愛で、その愛が永遠に続くのかという不安を、接吻をする男女を崖の上に立たせたて表現したのだ。
だがその愛の表現は、クリムトが生涯描き続ける絵のテーマだったのではないか?
彼の絵は性の解放と艶かしい裸体の表現、つまりずっと美しい物の追及をし続けた。
それは多くの人々の心を惹き付けた。
けれど自分は、その絵にまた疑問が湧いた、なぜかどこか寂しさを感じる…
愛する人がいたのに…
画家は、美しい物を描く事に喜びを感じ、追及する物だと思っている、絵を描く人は皆そうじゃないか。
だが自分それだけではない気がしてならない、絵を描くというのは本当に美しい物を描くだけか…。
クリムトの絵に深さや意味がないというのではない、ただ彼はずっとその目線で描きつづけた画家だった。
多くの人の美意識を満たした画家だが、自分は余計かもしれないが思ってしまう…
何故彼の絵は広がりを持たなかったのか、美しい物を描くという所から、愛を描くという場所へ画家としてたどり着かなかったのだろう。
家族や友人や、人生の中にある触れ合いや、瞬間を彼は描かなかった。もしくは聖書や戦争のような壮大な絵も。自然の尊さもしかり…。
ピカソですらゲルニカを描いた、同じように美しい女性を描いたミュシャも晩年「スラブ叙事詩」という宗教画を描いた。
画家は人生を長く生きていくと、世の中に対して愛を与える方向に、描く絵が変わるが者も多くいる。
まるで人間に産まれてきたからには、というよいな使命感さえも感じる。
けれど何故クリムトは、そこにたどり着かなかったのか?
これは私の余計な見解だが、やはり恋人のエミーリエの存在だろう、彼女自身もキャリアウーマンでファッションの仕事をバリバリしていた。
だからクリムトと恋人同士でも、結婚しないという選択ができた。
クリムトは接吻の絵に描いたように、家族や子供やそういった世界を人生で築かなかった。
ただ愛する人との恋愛に、幸せと幸せすぎるからこそ、怖いくらいの不安を感じる人生だった。
だから他の画家のように愛を追及する絵を描かなかったのだ。
きっと現代にいても変わらなかったと思う。もっと未来になって結婚やパートナーという関係を多様に選べるのならどうだろ?
クリムトの生き方のならではの、愛を追及した絵を見れたかもしれない。
そう思うとビアンの私自身とも重なる所がある。
同姓愛者だけではないのかもしれないが…。
だからこそあのクリムトの絵画に、完璧な愛を手に入れられない人間のもどかしさみたいな何かが、私達の心に迫ってくるのかもしれない。
決して愛が無いのではない、愛するという形の不完全さが彼の恋愛そのものだ…。
たがその不完全さの中で、深く純粋にその人を愛した。
それは彼の描く絵が、どこか切なさを帯びて美しくもあるからこそ、人の心の中に迫っていく理由ではないか。
もう一度いうが、愛が無いのではない、愛する恋人がいても、クリムト自身が画家として生きた時代の中で結婚するという事を選らばなかった。
それが不完全な愛の中でも、クリムトが真摯にエミーリエに愛を注ごうと、その気持ちが描く絵に、溢れ出て切なさを感じるのだ。
自分は芸術家は愛を描かなくて何を描くのかと思う。
私達は誰かを愛する為、愛される為、産まれてきた。なら誰しもが愛を追及する権利はあるのだ。
クリムトの画家としての恋愛と人生そのものが、彼の描く美しい物だと痛感した。