#161 わかりにくい個性より、わかりやすい社会性

ゼミでの卒論発表や、就活時の面接やES、その他の授業などにおいてプレゼンを行う時など、自分が作成したプログラムや自分自身の考えを他者に言葉で伝える場面というものがある。そういった場合には、発表の仕方に関して指摘を頂くことが多い。

どんな発表でも、基本的に端的であること、シンプルでわかりやすく伝えることが重要だと言われる。まずは結論を述べてから理由について説明するという形である。聞き手が重要視しているのは、議題に関するわかりやすい答えなので、最低限それだけ聞けばOKということだ。なんなら、文章として考える必要もないということだ。聞いている方は、こちらが10話したとしたら1くらいしか記憶していないということらしい。だから、キーワードだけ残す方が効果的らしい。そうして話を端的に済ませたのち、聞き手が興味があればキーワードについて質問してくるから、聞かれたら丁寧に説明すればよいということである。

たしかに、それは正しいと思う。相手の興味があるかわからない状態で多くの情報を含みながら話を続けることは、効果的だとは言えない。つまり、私が口に出す言葉のほとんどは、意味を持たないただの雑音と化してしまう。せっかく中身を考えて、詳細に考えてそれが相手に届かないくらいなら、始めから話さない方がマシである。自分なりに凝ったとて無駄になるだけである。

話の構成も大事である。構成が典型的であれば、聞き手も内容をより把握しやすくなる。構成で変なこだわりを発揮してしまうのは非常に邪魔である。話の構成というのはありきたりであるほど良いのだろう。変に寄り道などしてはならない。行く先がわからないことが面白いことも有るが、聞いている方は途方に暮れてしまい、聞く意欲を失う。

いや、構成をこねくり回すなら、一発一発の内容にパンチがある必要がある。話が長いと感じられるのならば、それは単純に内容がつまらないというのも含まれているのだろう。

話はできるだけ短く、端的にする。なぜなら、時間を割いて聞いてくださっている聞き手にコスパよく届けるためだ。

こうしてみると、話を聞く人間というのは、基本的に頑張って聞いてくれているという前提があるということがわかる。話し手が話したいからということで耳を貸してくれている。決して自分から聞きに来ているわけではない。

話をするときは、聞き手が興味のない前提で話した方が良い。こんな状況で話の内容に凝ること自体バカバカしくなってくる。こっちだって話したくて話しているわけではない。発表しなければならない状況だからそうせざるを得ないだけだ。準備するのも大変なのだ。だったら、念入りに準備するのが損だ。これからは、いかに話の準備に省エネ出来るかが自分の中での勝負になってきそうだ。

発表の場と他の場(例えば、普段会話するときなど)で求められる話し方は異なるものの、やはりどの場でも、わかりやすさに重点が置かれている気がする。

周りの人々は、自分のわかりにくい部分を欲していないと思う。つまり、わかりやすい存在でいてほしいということだ。ハッシュタグで示せないことは避けられているということだ。だからこそ、私は他人に相談しない。わかりにくい部分は自分の中だけで保存するのだ。他人に話してクエスチョンマークを呈示されるくらいなら最初から話さない方がマシだ。

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