万国フェチ博覧会を開こう
勝負が嫌いで、競技と名のつくものが嫌いだ。スポーツ、ゲーム、なんでもだ。平和主義とか、そういう思想的なものじゃない。生来の不器用からとにかく勝つことができず、もうええわ!となったのかもしれないが、勝ち続けている人だけが勝負を好きなはずがない(そうであれば世のスポーツ人口はかなり少ないはずだ)ので、勝負嫌いも一つの特性なのだろう。直感的に、大会とかランキングとか、そういうのが嫌いだ。
判を押したような写真たち
普段から撮り鉄と縁がなく、最近知って驚いたことがある。彼らのメインストリームは、"広告のような電車の写真を撮ることこそ正義"らしい。広告とは、つまり鉄道会社が雇ったプロのカメラマンが撮った写真ということだ。これをお手本とし、いかに正確にトレースできるかが撮り鉄の中では重要視され、界隈での知名度や力に紐づけられるらしい。
かなり驚いた。カメラ趣味というのはクリエイティブな、つまりは自由度のあるものだと思っていたからだ。しかし、撮り鉄側の「コスプレ写真だって原作にいかに近づけるかって遊びだろ」という反論を見て、ハッとした。言われてみれば、これは撮り鉄に限ったことではない。
コスプレ写真には「原作とコスプレを並べる」という無断転載文化があるように、たしかに原作を再現しようとするストリームは存在している。その場合、モデル側も撮影者も、原作の写真をお手本にして撮影に臨む。まさに撮り鉄と同じ、モノマネコンテストだ。インスタの"映え写真"だって、一定の撮り方が指南され、あたかも美しさの規定があるかのようだ。写真に限らず、ツイッターの"陰キャ"仕草だって同じだ。皆そろってBBQを嫌い、クリスマスを憎む。
趣味のスポーツ化
日本人は、そもそも皆と同じことをどれだけ洗練させられるか、みたいなエクストリームスポーツが好きなんだと思う。古くから日本で流行っていたスポーツといえば、そう、茶道だ。茶器の扱い、抹茶の立て方、飲み方に順番とルールがあり、基本的にはそれを全て覚えてコピーしなくてはならない。この"型"は現代でいうと、おそらくラーメン二郎ほど厳格だろう。「にんにくは?」に「マシマシで」。こんなの、勉強しなければ正答できない。よく女のスタバは男の二郎なんて言われていたが、近いのはカロリーだけだ。スタバには"型"はない。「これ、中くらいのサイズで」と注文しても店主に睨まれることも、笑われることもないのだ。
実際に、お手本を真似をすることや手順を完遂することは、分かりやすい達成感があり楽しい。ただ、それだけが価値があることだと驕るのは大きな間違いだ。写真について言えば、ぶっちゃけ観るだけの人間からしたら、「プロの写真で十分」だし、「原作見ればいいじゃん」の感想しかない。同時に,それが何だというのだ。価値がなくても楽しいんだからいいじゃん、と言えなければ、それは部外者の価値観に負けてしまっている。オタクは迫害を受けたトラウマ故に健康そうな人種に劣等感を感じて自分の方が上等だと主張したい傾向があるが、君たちの趣味も、彼らがフットサルや草野球をやるのと同じようなものだ。ボール追いかけるの面白いとか、プロ選手の真似する楽しいとか、走るのがしんどくてウケるとか、そんなくだらなさでいい。同様に馬鹿にされるべきものではない。競技場の外に迷惑をかけない限りは。
AIと娯楽
AIがイラストを出力できるようになって、男性向けエロがかなり打撃を受けていると聞く。なにより、クリエイターの作品が無断で使用されることについては規制されるべきことだと強く思う。そんな搾取は、あってはならない。一方で、ある特徴のクリエイターの既存の絵柄が"AIっぽい"と槍玉にあげられているのはご愁傷様と思いつつ、まあ、そうなるよな…という納得感もある。男性向けでバズってるイラスト、シコらない側からすると、正直、大体おんなじなのだ。きっと好きな人から見れば違いが語れるんだろうが、はいはいちょっとエッチなのってこういう顔と表情と色味よね…ってスルーできてしまう。
しつこく言うが、外部から見てなんの違いもなくても、趣味に打ち込む本人たちが楽しければなんの問題もない。ただ、その競技場にAIが入ってきて欲しくないというのは無理があったという話だ。「いや、シコれれば別になんでも良いんだけど…」という消費者にとってAI創作も人間の創作も関係がないし、AIは簡単に作れる。「型を守って大多数の理想を突き詰める」という創作は、人間でなくてもできることが証明されてしまった。大衆文化的なクリエイターは沢山そのために努力をしてきて、それなのに食えなくなるのは、本当に不憫なことだと思う。AIクリエイターによる盗作を許すべきではない。一方で、売れる要素への準拠を重んじるカルチャーは実は既に飽和状態だったのではないか?
大喜利大会しとけ
大会の中で唯一、私は大喜利大会が好きだ。優等生に答えたと思えば脱線し、全く関係ないものを出す笑いもある。問いに対する理想的な答えではないもの、単品では面白くないようなものが、時に爆発的な笑いを取ったりする。その場のフレキシブルなライブ感と、大笑いしたけどあれなんだったの?と後に残らないくだらなさが、鑑賞していて最高に気持ちがいい。実際、大喜利ライブはギャラをもらった芸人が芸を見せるパフォーマンスであり、趣味とは少しズレるが、娯楽ってそんなもんでいいんじゃないか。
これからの時代、誰もが心地よい最大公約数的な商業的カルチャーは過去データとAIに任せて、人間はニッチで自分勝手な創作活動をするのがいいんじゃないだろうか。同じ車両を撮ってるのに俺たち着眼点が全然違うなとか、おっ!あんちゃんこれでシコるのかい!粋だねえ!みたいな、そういう気付きがある方が正解に縛られるよりも趣味コミュニティが活発になり楽しげだ。皆が好きな方向性を突き詰める人だって好きにやったらいいが、「主流を汲まなきゃ本物じゃない」みたいな圧力が趣味レベルでもかけられるの、ちょっと煙たくないですか。
他人の理想を再現することを過度に気にしすぎない。それが新しいメインストリームになったら、フェチ・地球博を開催しようじゃないか。きっとオリンピックと同じくらい盛り上がる。完全性がなくても、価値を数字で表せなくても、許されるのが娯楽のいいところだ。