稀代の調整師 豊臣秀長
豊臣秀吉は、日本史上最大の出世した
人物だ。尾張中村郷の農夫の小倅の
「猿」が、三十数年の間に、日本全国を支配する「天下の主」になった。
日本史ばかりか、世界の歴史の中でも
これに、匹敵するほどの大成長は、漢の高祖・劉邦、モンゴルのジンギス汗、
明の太祖・朱元璋、フランスのナポレオンなど五指を数える程度だ。
それだけに、秀吉とその組織には、急成長の無理も苦労も満ち満ちていた。
当時の軍隊は、土地の豪族が、支配している土地の者を連れてきて、戦をしており、その中で気の利くものが、居れば
指揮を任せたりした。
秀吉は土地も持たない者なので、部下を集めるところから、やらなければ、
ならなかった。それに、彼は、親類縁者にも、恵まれていない。
そのなかで、実弟の、小一郎秀長が、
奇跡的に人間力を持っている人物であった。秀吉が信長の近くで、活動できたのは、秀長が、秀吉の家来の面倒を見ていた。
信長が美濃の斎藤氏を滅ぼした後も、
秀吉は、信長から、稀代の名軍師、
竹中半兵衛を迎い入れたときも、秀長は、秀吉の部下の猪武者とインテリの半兵衛の仲の取り持ちをしている。
信長が、北近江の浅井氏を滅ぼしたあと、長浜城🏯12万石を拝領している。
そのときも、経理などの行政手腕にすぐれた、増田長盛、石田三成などの家来を迎い入れたときも、戦しかしらない、
尾張時代の家来との軋轢を、秀長が
調整している。秀吉の家来の武断派と呼ばれた、加藤清正、福島正則らと、文治派とよばれた、石田三成、小西行長の対立で、その対立を利用した、徳川家康によって、豊臣家は、滅ぼされたが、
武断派と文治派の調整をしていたのが、
豊臣秀長であった。
組織には、組織全体の調整をする
補佐役が不可欠なのである。
それを担っていたのが、豊臣秀長
であった。