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徳川家康の城の考え

 城についての徳川家康の考えは面白い。家康は単純に「堅固な城を作ればよい」とは言わない。「城は敵に取られるもの」と考えていたようである。
 家康は、まことに用心深い。織田信長のように、手薄な本能寺に泊まって殺されるのは、まっぴら御免と考え、関ヶ原合戦で勝つと、京都に宿泊用の城を作らせ始めた。二条城である。

 遠方に堅固な城を築くと、敵に取られた時に困る。家康以来、徳川幕府がそんな思想を持ったからか、お城を持たせてもらえない殿様が出来てしまった。北海道(蝦夷地)の松前氏と五島列島の五島氏である。異国から日本を防衛するには、真っ先に、北海道や五島列島に城が必要。ところが、松前氏や五島氏は公式には居所が「館」のままで、異国船の脅威が深刻になる幕末期まて、なかなか本格的な築城が許可されなかった。
 その事情をペリー来航の1853年に書かれた『千代田問答』は、こう記す。「御神将(家康公)は、ある時、おっしゃった。松前・五島には城地を経営させないようにしろ。万一、外国人に攻めとられた時は、とりも直さず、(侵略)の足がかりになる。そのため、城地は無用ということだ。(松前・五島は)いずれも海を隔てた土地ゆえ、海から侵略が来て襲われるのが急で、自国の援兵が到るのが遅い時は落城するだろう。その時は、たちまち外国人の巣窟になり取り戻すのが難儀だろうから。」家康の言葉に仮託して、幕府が松前氏や五島氏への築城許可を渋った理由が語られている。

家康は諸事、こういう感じで、家康らしい用心深い考えである。

この記事も、前回と同様、尊敬する歴史家 磯田道史先生の著作からの引用です。
 ありがとうございました。


 


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