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幕末の古名将 黒田清隆 ①
黒田清隆、天保十一年(1840)に、生まれた。鹿児島県藩士。
清隆の生まれた家は、四石取りの武士の家であった。すごく貧しい家で、日光も入らず、ジメジメしていた。明日の飯にも事欠く具合で、清隆は、小さい時から、薪水衣食の苦労を知っていた。
青年の頃、薩摩藩に仕えて、3両2人扶持を受け、江戸で砲術を研究し、藩に、帰ると外交掛を命じられる。そのことにより、諸藩の士と接して、天下の時勢を知ることができた。
明治維新が成立した原動力は、犬猿の仲であった、薩摩藩、長州藩が提携し、
薩長同盟がなったことによる。
この同盟は、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎などを中心にして、薩長の間を周旋して、その結合に尽力した。
慶応元年(1865)、西郷隆盛が、蒸気船で江戸へ向かう途中、馬関(今の下関)に寄って、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)らと、会見する予定であったが、
事情があって、果たせず、西郷は自分の代理として、黒田清隆に長州藩に赴かせた。
清隆は、外見は、はなはだ無骨な男である。西郷の代わりに、その大任を任されたが、仲介者の坂本、中岡は、清隆の技倆を疑って、事の成否を危ぶんだ。
その出発に臨み、西郷は、長州の桂氏は傑物であり、仲介の中岡氏は、異材であると清隆を戒めた。
この時、清隆の貧しさを知っている西郷は、彼に旅費を支給して、長州に赴かせようとした。
清隆は、あらかじめその必要のことがあろうと思い、貧苦の中より、蓄えた小判五両があるので、その心配には、及ばないですと言った。
西郷は、手を打って喜び、大事を託せる男だ、しかし、公用であるからと、旅費を支給した。
坂本らは、このことを知り、清隆が人物であることがわかった
桂小五郎もまた、初めは西郷隆盛が来ないのに、憤慨したが、清隆の重厚寡言にして、カラッとした男ぶりに、みせらるて、ついには、自ら京都に赴いて、西郷に会うことを約束した。
清隆は、西郷の知遇に背かず、その重責を果たした。
明治に、至りて、戊辰戦争のおり、東北地方に官軍に反抗するものは、会津藩の他に庄内藩があった。
清隆、官軍の参謀として出征した。庄内藩、力尽きて、罪を謝罪した。清隆、講和の議をはかった。
庄内藩には、兵器を出すこと、そして、開城せよ。期限は三日であると
言った。
庄内藩、謹慎の態度をしめし、官軍を迎い入れた。清隆、庄内藩の窮状を察し、寛大な処置をした。
〜幕末の古名将 黒田清隆 ② 〜へ続く
索引 幕末・明治名将言行録(詳注版)
近世名将言行録刊行会 編
(株)原書房 2015年