島津義弘の関ヶ原合戦
関ヶ原合戦後、土佐の長宗我部は潰したのに、なぜ、薩摩の島津を潰さなかったのか?
関ヶ原で、島津義弘は、有名な撤退戦を敢行。なんと、家康の方に向かって突進してきた。
これにより徳川軍に甚大な被害が出た。先鋒大将の井伊直政が、銃傷受け、
それが元で2年後に死亡。
家康最愛の子である松平忠吉も銃弾を
浴び負傷。
本多忠勝も馬を銃撃され落馬。家康は恐怖した。
島津軍は、島津義弘一人を逃すため、
全軍が命を捨てる「捨てかまり戦法」を
とったとし、1000人が60人になったといわれる。
その強さは精神力だけか?
じつは、島津軍の秘密は火力にあった。えりすぐった精鋭部隊で、近代軍のように、全員ではないが、他軍から見れば、異様なほど、銃を装備していた。
銃装備。これこそが島津義弘が生還できた本当の理由だった。
当時の武士は鉄砲を卑怯な飛び道具と
考え、足軽に持たせたが、薩摩では、
この考えがうすかった。
身分のある武士も鉄砲を使う戦士の合理性があった。
大量の銃で徳川の要人を死傷させたことが家康を恐怖させ、薩摩征服をあきらめさせた。
薩摩の合理性。これが、幕末、鳥羽伏見で再び徳川軍に弾を浴びせて、関ヶ原のかたきをうった。
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