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羽柴秀吉の備中高松城、水攻め
京都で織田信長が明智光秀に討たれた時、羽柴秀吉は、いち早くそれを知った。
当時、秀吉は中国地方の毛利氏と戦っており、毛利方の備中高松城(岡山県)を包囲中であった。城の周囲に堤防を築き、梅雨で増水した河川の濁流を流し込み、水攻めにしていた。
だが、信長の死を知ると、秀吉はすばやく毛利と停戦して、都へ取って返し、光秀を破って天下を取った。
よく出る疑問がある。「秀吉軍は水攻め堤防を三キロ近く築いた。がしかしこの堤防のわずか一キロ先の川向うまで、毛利軍が高松城の援軍にきている。毛利軍は工事を邪魔したり、堤防を破壊できなかったのか?」
毛利軍の援軍の出足は遅く、集まりが悪かった。
そのうち、手早く秀吉は堤防工事をおえてしまった。堤防は三キロに見えるが、実は大半が自然堤防や微高地を利用していた(籠瀬義明「備中高松城水堤防への異論」)。
壊せるのは300メートルの区間だけ。
そこだけ割と高い人工堤防が築かれていた。
しかし、その場所は秀吉の本陣の目の前で、しかも山上から銃撃されやすい場所であった。この部分を破壊しようとすれば、秀吉軍の本陣下で銃丸を浴び、包囲殲滅される。
なので、堤防の破壊は無理であった。
そのうえ、秀吉は毛利軍内部への裏切り工作に余念がなかった。密使を送り、金銀をばら撒いた。
毛利方の砦が次々に、落ちた。
極めつけは、毛利軍の大将、小早川隆景の義理の兄弟までも裏切った。上原元将という武将で、毛利元就の娘を妻にしていたのに、味方を斬り殺して、秀吉のもとに走った。
毛利軍は動揺し、疑心暗鬼に陥った。
小早川隆景は、撤退しようかと口走っていた。
そのため、堤防の破壊どころではなかった。秀吉から和睦の話がくると、すぐ
応じた。
「信長が死んだ」との確報がきても
秀吉軍を追撃する気は起きなかった。
味方は内通者だらけで、危険であった。
そのため、秀吉はやすやすと備中高松城から京都までの中国大返しを、行なったのであった。
索引 『日本史を暴く』 磯田道史
2022年 中公新書