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 幕末の古名将 黒田清隆 ②

 明治になり、戊辰戦争で官軍の参謀として、東北の庄内藩を降した黒田清隆。
 戊辰戦争で、旧幕臣などが、明治政府に最後の抵抗を続ける、函館、五稜郭の戦い。
 清隆は海軍参謀として、従軍した。明治二年五月、幕軍の本拠地、五稜郭が、危うくなった。清隆、軍使をやって、降伏を勧めたが、幕軍の総大将・榎本釜次郎(武揚)らは、容易に応じなかった。
 ただ、榎本がオランダ留学中に得た、フランスのオルトランの海上万国法(その当時の国際法)を、貴重な書籍として、贈ってきた。後に、この書を福沢諭吉に託して、翻訳させて、世間に発表した。
 珍しい本を贈られたことを清隆は、喜び榎本に書を送って感謝して、酒五樽を与えて、陣中をねぎらえ、と告げた。
 清隆、ここに榎本らを殺すには、惜しいと思い、将来、国家の為に用いようと思っていた。切に諭して、その降伏を強いた。
 榎本らは、遂に議を決して、清隆と降伏条件を協議して、官軍に降った。これによって、日本全体における官軍に反抗する者たちを鎮め終わった。
 降将榎本らは、東京に護送されて、獄に下された。その罪を決めるにあたり、
死刑を主張する、有力者もいた。しかし、清隆は、自説を譲らず、榎本らの死を赦して、国家のために、尽くさせるべきことを唱えた。王政一新して、天下の政治を始めるにあたり、榎本の海軍における造詣の深さは、尋常ではないので、これを用いて、国家の利益となすべきでは、ないのかと訴えた。
 しかし、天皇が臨席する協議の中で、賊魁誅すべし、との意見を頑強に申す者があった。清隆、憤然として、榎本を必ず斬るというならば、まず先に清隆の如き、無用の者を斬れと叫び、席を蹴って家に返り、剃髪して、今日の論議にのぞんで、御前(明治天皇)を騒がせた罪は、万死に当たると言って、ついに、自ら謹慎蟄居して、朝廷の議に出なかった。ここに、朝議、決して、榎本の死を、ゆるすことになった。
 清隆、北海道開拓の任に就くや、榎本を起用して、その才を用いようととした。榎本もまた、清隆の情誼に応えて、その任に尽くした。
 清隆は、有名な酒豪であった。その痛飲の後は、乱酔狼藉で、人は虎の如く恐れた。しかし、他の一面では、慎重重厚である、古名将の風格が、あった。
 
 向島の植木屋、依田某が、草花と2鉢の松を並べた。草花は売り尽くしたが、松は高価であるため、なかなか売れない。そこに、質素な服装の人が、従者をつれて、松の値段を聞いた。30円(明治時代当時)ですと、答えた。それをもって、ついて来たまえといわれ、ついていくと、宏壮な邸宅にはいり、代金を与えられた。明朝、所要がある故、必ず来たまえと言われた。
 翌朝、その門の標札をみて、枢密院議長・黒田清隆であると知り、おおいに、驚き、おおいに畏れた。
 清隆、庭前に招き、あの松は、どれくらいの年月、育てたのかと問われた。
 植木師、謹んで、数十年育て、高価である所以を説き、売ったお金で、死んだ時の備えを残そうとしていると答えた。
 清隆、その素朴にして邪気なきを愛して、三十金にては、その用には足りないだろう。これからは、我が邸に来て、庭園の修補に尽くせよ。賃金を与えようと言った。植木師、泣いてその恩命を懇謝した。

 明治十四年、内閣顧問、同十七年、伯爵を授けられる。のち、大臣になること数回、内閣総理大臣にもなった。枢密院議長にも任ぜられる。従一位大勲位に至る。明治三十三年八月二十三日逝く。
六十一歳。

 
索引 幕末・明治名将言行録(詳注版)
   近世名将言行録刊行会 編
   (株)原書房 2015年

    



 

 


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