谷干城 熊本城攻防戦②

  明治10年、西南戦争が始まった。

 薩摩の健児一万数千、西郷隆盛を擁して、怒濤の如く、押し寄せ、熊本城を
包囲した。
 薩軍は、剽悍の士、率いる将は、天下知名の猛将軍らである。
 これに対して熊本城を守る者は、しょせんクソ鎮である。この城が敗れたら、
天下が瓦解する勢いとなるから、司令長官たる谷干城の重責は、天下安危存亡を決するものであった。
 干城の策は、熊本城を固く守って、敵勢を阻み、東京よりの援軍をくるのを待って、一挙に敵を掃討することであった。
 熊本城にいる将校は、薩人も多くいたが、司令長官 谷干城に従った。
 熊本城を守るのは、3500人。
 これに対して、熊本城を包囲せるのは、13000人以上いて、兵気も薩軍が勝っており、主将たる干城の心労は、
並々ならぬものであった。
 籠城第一策は、兵士の士気の鼓舞が緊急であった。
 城内において大招魂祭を催した。
さきに、戦死した種田、高島らのために招魂祭をなし、余興に相撲を行なわしめて、士気があがるように、計った。
幸いにその効果、著しく現れて、各兵士は、大いに緊張し、敵の襲撃に備える勇気が見られた。
 熊本城籠城で最も困ったのは、糧食の欠乏であった。城は全て包囲されてしまい、外部との連絡が絶えてしまった。
 糧食、欠乏して司令長官といえども、
粟飯あるいは粟粥を食べることになった。野菜尽き、魚肉尽き、ついに、病馬を食べ、斃れた馬の肉を削いで、肉汁を
作り、これを病兵、負傷兵に与え、残った肉を兵士の食とした。
 この馬肉は、最上の美食であった。
敵弾に当たって馬が傷つくや、その肉の分配をもらおうと、各隊から兵士が馳せ集まって、争って死馬の肉を喰らい、
去った。
 干城以下の将士、皆、粗食減食をもって甘んじて、土を食い、石を噛じりても、敵を阻むにつとめた。
 谷干城、全城死活を決定する最後案として、重囲を突破する議案を提出した。
干城、自らが陣頭に立ちて指揮し、事を一挙に決めようとしたが、評議の結果、
陸軍歩兵少佐 奥保鞏(おくやすかた)
が突撃隊の指揮者となった。
 突撃隊は、暁霧をついて、城を出て突進した。幸いに、援軍の営に着いてその使命を果たした。
 突撃隊の成功は、籠城者の元気を呼び起こすものであった。法華坂の守兵は、盛んに花岡山の敵軍を砲撃して、これを
二本木村に退かしめた。
 干城、巡視の途中、喉を打たれ斃れたが、気管、及び大動脈を外れていたため、1週間の治療で済んだ。

 諸道の官軍すすんで、敵を破り、遂に熊本城との連絡を完成し、これにより、
敵は、退却に退却を重ね、城山の陥落によって、この戦役は閉じ終わった。

 西南戦争を語る時には、必ず、熊本城籠城が引き合いに出される。
 熊本城籠城は、谷干城の堅忍不抜によって、勝利を引き寄せたのであった。

 別の文献で、西郷隆盛は、西南戦争は加藤清正に敗れたと言っている。
 熊本城は、戦国武将、城造りの名人、
加藤清正の全智全能を振り絞って作った城だからだ。剽悍無比の薩摩隼人の猛攻を跳ね返した事実は、加藤清正の城作りの腕の確かさを証明した。

  

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